もう少し寄り道

 
 
もう少し寄り道
 永井均の〈私〉の議論は魅力的である。とくに若い世代に受け入れられたように思われる。これは、若い世代が、不登校やニートや引きこもりになっていること、あるいは日本全体が無縁社会になっていることと関係しているように思われる。私たちが引きこもりたくなるのは、他者と比較したり比較されたり、他者と競争したりしたくないからである。あるいは、空気を読んでつねに同調することに疲れているからである。一方における極端な同調と競争と、他方における極端な引きこもりが、日本の社会の現状である。
 現代の社会では、個人は個として社会に投げ出されて、競争社会の中で生きていかなければならない。確かに社会の中で生きることは、さまざまな社会関係の中で生きることであるので、利害を共有する人たちがいるはずだ。しかし、その人たちと連帯することが難しくなっている。同じ会社のサラリーマン同士であるとき、利害を共有しても、他方では競争相手であるからだ。競争の激しさが、連帯を困難にし、個人を孤立させ、さらに人一人を押しつぶしている。
 国家や会社のために個人があるのではないとすれば、(途中の論証がまだないが)、個人や労働力が商品であるということはありえない。というわけで、我々の社会の再構築のためにも、「人格とは何か」に答えることが重要だ。
 
まだ本論に入っていませんが、何でもご批判比ください。
 
 
 

言わずもがな、への予想される反論

 
 
言わずもがな、への予想される反論
 
「人格論が重要である、という主張こそが、問題なのだ」という反論があるかもしれない。
「人格は存在しないのであって、人格にとらわれているからこそ様々な問題が生じることになるのだ」という反論である。このような仏教的な言説には、たしかに人々を解放する側面がある。しかし、そのような否定的は発言をするだけでは、人格にとらわれている私たちが直面している問題を解決することはできない。もちろん、彼らは、問題を解決するのではなくて、問題を解消することを勧めている。
 しかし仏教者がそのように勧めても、我々は相変わらず人格にとらわれて、人格を前提とした諸問題に悩まされている。そこには原因があるはずだ。(修業が足りない、という原因ではなくて、そもそもなぜ修業が必要になるのか、という原因があるはずだ。)人格は存在せず、それが存在すると思うのは、「物象化的錯視」(広松渉)であるかもしれない。しかし、物象化にはそれなりの原因があるはずである。マルクスや広松が明らかにしようとしたように、それは生産関係に基づくのかもしれないし、あるいは別の説明が可能かもしれない。人格が社会的に構成されるものであることは、仏教者もマルクス主義者もルーマンのようなシステム論者もあるいは構造主義者も、概ね認めることであろう。
 仮に人格が存在しないとしても、それが社会的にどのように構成されているのかを明らかにすることが必要である。というわけで、やはり「人格とは何か」という問いに答えることが重要なのである。
 
 もう一つ考えられる反論は、一般的な「人格」ではなくて、かけがえのない〈私〉(永井均)について考えることの方が重要であるという反論である。〈私〉についてどう考えるかは、形而上学の問題であって、これの答えがどうであれ、人格としての私たちが直面している問題は、そのまま残り続けるだろう。かけがえのない〈私〉は何か、という形而上学的な問題を重視することによって、比較の眼差しにさらされている現実の人間関係の問題から解放されるように感じた人々がいたが、それは孤立の問題や引きこもりの問題に形を変えただけかもしれない。〈私〉についての形而上学の問題は残るにせよ、やはり「人格とは何か」という問題は重要だ。
 
 
 
 

言わずもがな

 
 
                  
 
言わずもがな、であるかもしれないが、次のような理由で、人格とは何かを考えることは重要である。
 
・道徳や法は、道徳的な人格、法的な人格を前提している。
・意志の自由が重要な議論になるとすれば、そのこともまた、人格の存在を前提しているのではないだろうか。なぜなら、持続する人格というものが無ければ、意志が自由であっても、それは意志決定が自然現象から独立に偶然的に生じるということに過ぎなくなるように思われるからである。そのような意志の自由について論じることは、自然現象の偶然性について論じることと重要性において違いがないように思われる。
・さらに、もし人格がないとすると、人生の意味も、人生そのものも存在しないことになるのではないだろうか。
・また、社会を、近代の契約論者のように個人からなるものとして考えるのではなくて、ウェーバーやパーソンズのように行為からなるシステムとして考えるにせよ、あるいはルーマンのようにコミュニケーションからなるシステムとして考えるにせよ。我々にとって、そのような社会が問題になるのは、その社会の中で我々が人格として存在しているからではないだろうか。
・我々は常にすでに自分をある人格として理解し、人格として存在している。
 
したがって、我々が、生きる意味や、社会について考えるときに、「人格とは何か」を考えることは重要なテーマである。
 
というわけで、森の中に奥深く入り込んで行こう。