05 平和のための軍事力の放棄(20230405)

カテゴリー:平和のために]

 社会制度(社会的ルールと社会的組織)は、社会問題の解決策です。国家は、社会的組織の一つであり、戦争は国家による問題解決策の一つとみなされています。

 国家は、問題解決策としての暴力を国内で禁止します(これが国家が解決すべき中心的な社会問題(万人の万人に対する争いを防いで、どのようにして個人の安全を保障するか)とその解決策です)。国家はそのために暴力装置を独占します。しかし、国家には、国家にだけ認められている暴力装置を用いて、国家間の問題解決策の一つとして戦争を行うことが可能です。

 どのようにして国家間の問題解決策としての戦争を防ぐかといえば、戦争に代わる問題解決策を採用するしかありません。戦争のきっかけになりそうな国家間の問題には、次のようなものがあります。領土問題、他国の軍事的脅威の問題、資源の奪い合い、経済競争、など。戦争によらずにこれらを解決するには、話し合いしかありません。利害の対立を、話し合いで解決するにはギブアンドテイクによる妥協が必要です。しかし、妥協が成立するとは限りません。その場合には戦争の可能性が残ります。戦争を防ぎ、永遠平和を構築するには、国家が軍事力を持つことを禁止するしかないでしょう。

 それを明文化したものが、日本国憲法9条です。

「第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 の交戦権は、これを認めない。」

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

永遠平和のためには、軍事力の放棄を国際法として実現することが必要ですが、それをどうやって実現したらよいのでしょうか。

15 「生存価値」の問答論的論証 (20220327)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

前回曖昧でしたが、次の二つは異なります。

①人は生きている限り、何か価値のあることをし始める可能性をもつので、人が生きていることは価値がある。(この場合には、人が生きていることに価値があるのは、その人がすることに価値があるからです。この価値を「メタレベルの能力価値」と呼ぶことができます。)

②人が生きているだけで価値がある。(この場合には、人は、その人がすることに価値がある(何かの役に立つ)のでなくても、生きているだけで価値がある、という意味です。この価値が「生存価値」です。)

この①と②は異なります。人は自由であることによって、「メタレベルの能力価値」を持ちますが、また自由であることによって「生存価値」を持ちます。「自由であること」が「生存価値」であると言いたいのですが、それをどう説明したらよいでしょうか。

この説明のためには、「自由であること」を定義し、「人は自由である」と「自由であることは価値がある」を証明しなければなりません。ここで次のような問答論的な超越論的論証が可能であるかもしれません。

まず、「自由であること=問答ができること」と定義します。

次に、「人は自由である」を次のように証明します。「あなたは自由ですか」という問いに「いいえ自由ではありません」と答えることは、「あなたは問答できますか」と言う問いに「いいえ問答できません」と答えることが問答論的矛盾になるので、「はい私は問答できます」という答えが問答論的に必然的な答えになります。

次に、「自由であることは価値がありますか」という問いに「いいえ自由であることには価値はありません」と答えることは、「問答することに価値がありますか」という問いに「いいえ問答することに価値はありません」と答えることになります。ここで「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」を仮定するならば、「いいえ問答することに価値はありません」は問答論的矛盾になるので、「はい問答することに価値があります」という答えが問答論的に必然的な答えになります。したがって、「自由であることは価値がありますか」という問いには、「はい自由であることには価値があります」と答えることが問答論的に必然的な答えになります。

ここで残る課題は、次の定義と仮定を証明することです。

定義「自由であること=問答ができること」

仮定「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」

14 「生存価値」と「能力価値」 (20220325)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「すべての人は生きているだけで価値がある」と主張したいのですが、どうしたらそれを証明できるでしょうか。生きているだけで成立するこの価値を「生存価値」と呼ぶことにします。

 「人生の価値」は、ここにいう「生存価値」以外にもあるだろうと思います。たとえば、サッカー選手の人生は、サッカー少年にとっては価値があるでしょう。容姿端麗の人の人生は、面食いの人には価値があるでしょう。ある小説を書いた人の人生は、その小説に感動した人にとっては価値があるでしょう。これらの価値は、人がある性質を持っていたり、ある行為をしたために持つ価値であり、「生存価値」ではありません。このような価値を「能力価値」と呼びたいと思います。これは何かの目的のための手段としての価値です。したがって、そのような(性質や行為の)能力は、その目的を自分の人生の目的とする人にとって、価値を持つのです。

 前回述べたように、ある人の「人生の価値」は、常に誰かにとっての価値です。したがって、ある人の「生存価値」もまた、常に誰かにとっての「価値」です。しかしそのことは、ある人の「生存価値」が、全ての人にとって「価値」であることと矛盾しません。そして、全ての人が、全ての人にとって、「生存価値」を持つ、と言うこととも矛盾しません。私が主張したいこと「すべての人は生きているだけで価値がある」ということは、「全ての人が全ての人にとって生存価値を持つ」と言うことです。では、それをどう説明したらよいでしょうか。

 生きている人には、常に未来の可能性が開かれています。したがって、どんな人も、たとえ今まで何の能力価値も持たないとしても、つまりいままで価値の或る性質を持たず、価値の或る行為をしたことがなくても、将来そうなる可能性はあります。その意味では、全ての人は、生きている限り、何らかの能力価値をもつ可能性があります。その能力価値がどんなものになるか分からない以上は、全ての人は全ての人にとって価値がある可能性があります。したがって、どんな人も、その人が生きることは、全ての人にとって、価値がある可能性があります。

 この<何らかの能力価値を持つ可能性をもつ>という能力は、特定の内容を持たない抽象的な能力ですが、しかし具体的な能力を持つための不可欠な能力です。それは<自由である>ということではないないでしょうか。

 次に、この意味での<自由である>ということが、全ての人が持つ「生存価値」であるということを説明したいと思います。

13 人生の意味と目的と価値の区別について (20220324)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(今回から数回にわたって、ウクライナの戦争犠牲者のことを思いつつ、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。)

前に(10回)人生の意味と人生の目的を区別して、次のように理解することを提案しました。

「ある人の人生の意味」とは、「その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体」です。

従って、ある人の「人生の意味」について、その人自身が特権的にアクセスできるのではありません。

「ある人の人生の目的」とは、その人が「私は何のために生きるようか」とか「私はなにをしようか」と自問して、それに与える答えです。

従って、ある人の「人生の目的」については、その人自身が特権的にアクセスできます。

ある人の「人生の価値」とは、このような「人生の意味」「人生の目的」とは区別されるものです。あるものの価値とは、常に誰かにとっての価値です。したがって、「ある人の人生の価値」もまた、常に誰かにとっての価値です。例えば、Xさんの人生の価値は、Xさんに自身にとっての価値や、Xさんの子供にとっての価値や、Xさんの友人にとっての価値や、Xさんのライバル会社にとっての価値や、Xさんと無縁のある国Rのある人Pさんにとっての価値であったり、します。

従って、ある人の「人生の価値」は、その人自身が特権的にアクセスできるものではありません。この点で「人生の意味」と似ています。ただし、多くの人が理解するある人の「人生の意味」は多様であっても、それらを含めるしかたで、その人の「人生の意味」が成立するのに対して、ある人の「人生の価値」は、さまざまな人や組織にとって、それぞれ多様であり、しかも、それらの多様な「人生の価値」が合わさって、その人の最終的な「人生の価値」を構成するということもありません。

 「Xさんの人生の価値」は、常に誰かにとってのものであり、その誰かが異なれば、それは異なるものなのです。

 

 次に、このような「人生の価値」の理解から出発して、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。

71 ブランダム=ヘーゲルとフレーゲ (20220322)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(体調を崩してしまい更新が遅れてしまいました。今は元気です。)

ブランダムは、フレーゲが論文「思想」で「事実は真なる思想である」と述べたことを高く評価します。フレーゲは、ここで確かに、事実を思想として捉えています。しかしその後フレーゲは、事実と思想の同質性を追求していません。そのことをブランダムは批判します。これに対して、ブランダムは、事実と思想の同質性を追求します。

 ブランダムは、フレーゲのこのSinnとBedeutungの区別を、ヘーゲルの<物が意識にとってあるあり方>と<物がそれ自体であるあり方>の区別に対応させて理解します。ブランダムは、Sinn(意義)とBedeutung(指示対象)の同質性を主張しますが、その同質性とは、それらが共に概念的であるということです。つまり、Bedeutungが概念的であるとは、物がそれ自体であるあり方が概念的であること、つまりそれが他のあり方と両立不可能性および論理的帰結の関係にあるということです。Sinn が概念的であるとは、物が意識にとってあるあり方が、同じような意味で概念的であるということです(ブランダムは、フレーゲのSinnとBedeutungの解釈について、『信頼の精神』の第12章で詳しく説明しています)。

ヘーゲルは『精神現象学』の「緒論」で、知の吟味のプロセスを説明する箇所で、対象についての知が変化すれば、対象そのものも変化すると論じています。ブランダムもまた、これを継承して、物が意識にとってあるあり方が、変化すれば、物がそれ自体であるあり方も変化すると考えますが、彼はこのことを、おそらくこの二つが相互的な意味依存の関係にあるということから説明するのです。フレーゲの用語を使うならば、Sinnが変化すれば、Bedeutungが変化するということになります。ブランダムは、SinnとBedeutungについて、またこれらの関係について全体論的に考えるのに対して、フレーゲと新フレーゲ主義が原子論的に捉えている点を批判します(Robert Brandom, A Spirit of Trust, Harvard UP.,  p.426)。

ブランダムのヘーゲル解釈については、私はまだ勉強不足なのですが、しかし、フレーゲが「事実は真なる思想である」と言ったことを引き継いで、ブランダムが、事実と思想の同質性を追求するとき、事実を客観的に不動のものとしてではなく、思想が変化すればそれに応じて変化するものとして理解していることが解ります。つまり、ブランダムの概念実在論は、クワインが想定していたような事実についての科学理論の変更可能性を想定しているのです。その限りで、概念実在論は、事実を問答関数として理解することと両立可能であると考えます。

70「問答関数」論への予想されるフレーゲからの反論(20220315)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前に(59回で)説明した「問答関数」とは次のようなものでした。

ブランダムの「概念実在論」は、客観的事実(fact)ないし事態(state of affairs)が概念的に構造化(ないし分節化)されていると考えます。事実は確かに、それと両立不可能な他の事実がなければ、一定の規定性をもちません。またある事実は、それから帰結する他の事実がなければ、一定の規定性をもちえません。このような概念的構造(推論的関係)は、無限に多様な仕方で語ることができます。クワインがいうように言語や理論が異なる時、それらは互いに矛盾するかもしれません。そこで、事実そのものが概念構造(推論的関係)を持つのではないと考えた方がよさそうです。つまり、事実が、「これはリンゴである」あるいは「これはリンゴであり、ナシではない」という概念構造を持つのではなく、事実は「これはリンゴですか?」と問われたら「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら「いいえ、これはナシではありません」という答えを返す関数である、と考えた方がよさそうです。

 <事実とは、ある問いの入力に対して、ある答えを出力する関数である>と見なすことができます。そして、このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。

 事実をこのような「問答関数」とみなすことは、フレーゲの関数理解とは矛盾します。なぜなら、フレーゲによれば、関数とは、不飽和なものであり、完結したものである固有名と結合することによって、はじめて完結した意義と指示対象を持つのです。関数は、不飽和なものであり、それに結合する引数(入力)とその結合から結果する値(出力)は完結したものなのです。それに対して、問答関数において入力となる問いは、それ自体では真理値(また適切性)を持たない不飽和な表現だと考えられるからです。(ただし、出力となる文は、真理値(また適切性)をもつ完結したものです。)

また、フレーゲならば、事実を不飽和なもの(関数)とみなすことにも反対しそうです。

 フレーゲのこの反論は、関数を、完結したものを入力として必要とする不飽和なものという理解に基づいています。しかし、関数については、他の理解もありえます。例えば、ラッセルは関数を、1対多(1対1を含む)の関係として捉え、不飽和な表現とは考えません。

 フレーゲが、関数(述語)を不飽和なものとして理解したのは、完結した記号が並ぶだけでは、完結した記号を構成できないと考えたからです。完結した記号が集まって一つの完結した記号を作るには、接着剤が必要であり、それが不飽和な関数(述語)だと考えたのです。それに対して、私は<命題を統一するのは、問答関係である>と考えたいと思います。

 述語の基底的な部分が、フレーゲの言う意味で不飽和であるように見えます。しかし、それは問いを構成するために必要なのです。「フクロウは飛ぶ」を前提して「フクロウはいつ飛びますか」と問うために、必要なのです。この問いは「フクロウはいつ飛ぶことをしますか」といい換えられます。この言い換えによって「をしますか」という述語の基底的な部分を明示化できます。この基底的な部分は、「飛ぶこと」と結合しますが、また「夕方に」という返答と結合します。私たちは、ある文について、さらに様々な条件を問う子ことができますから、述語の基底的な部分は、あらかじめ決められた一定の項をもつ関数であるとはいません。問いと答えの関係が、答えを統一性を持つ完結した表現にするのです。答えとなる表現が、統一性を持つのは、それが問いに対する答えとして理解されることによってです。その意味では、命題の統一性は、それが問いの答えとして理解されることによってあり、命題の統一性は、問答の統一性に基づいています。(その意味で、問答こそが、言語的意味および言語行為の最小単位であると言えそうです。)

 ブランダムの「概念実在論」は、上記のクワインからの予想される反論に対して、おそらく、事実の概念的構造を常に修正に開かれているものとして主張すると思われます。概念実在論をそのように理解するとき、それは事実についての「問答関数」論と両立するかもしれません。

 この点を明らかにするために、ブランダムが、新フレーゲ主義について論じている点を確認しておきたいとおもいます。

69 前々回と前回に述べたことの再考(20220313)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、前々回述べた<命題を統一するのは、問答関係である>ということと、前回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを、それぞれ再考し、その上で両者の関係を考えたいと思います。

#<命題を統一するのは、問答関係である>について再考

前々回には、デイヴィドソンにならって「命題を統一するのは何か」という問題を設定し、この問題に対するフレーゲ的な回答「不飽和な述語によって、命題は統一化される」が不十分であることを示し、「命題を統一化するのは問答関係である」という答えを提案しました。この問題設定が「命題は文未満表現の意味からどのようにして合成されるのか」という問い、つまり「合成性」の問題と同じものとみなすのなら、この問題設定は、推論的意味論を採用する者にとっては、不適切です。なぜなら、「合成性」の問題は、原子論的な意味論を想定していますが、推論的意味論は全体論的意味論を採用するので、このような問題設定を認めないからです。

 以前にこれを論じたとき(カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の56回、57回の発言)に述べたように、私は、語の意味から出発するのでなく、また命題の意味から出発するのでもなく、それらの成立を問答関係から説明すべきだと考えます。

 問答推論的意味論では、命題の意味は、それの上流問答推論関係と下流問答推論関係によって/として成立すると考えます。従って、命題の統一も、それがこれらの問答推論関係に立つことによって成立すると考えます。<命題を統一するのは、それを答えとする問いとの問答関係である>というのは、この問答推論関係の一部を明示化しものだと言えます。

 ちなみに、疑問文の統一は、(疑問文の意味と同じように)、その疑問文の上流問答推論関係と下流問答推論関係によって説明されることになります。これは、次のことと関係しています。

 

<述語の核心的な部分を問うことはできない>について

 前回は、<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを事実として確認しました。しかし、なぜそうなるのかを説明しませんでした。これを考えたいと思いますが、「核心的な部分」というより、「基底的な部分」と言う方が適切だと思われるので、このように言い換えることにします。

 問いが成立するとは、それが他の命題や問いと問答推論関係に立つということです。問いが、問答推論的関係に立ちうるためには、問いが健全である(真なる答え/適切な答えを持つ)必要はないのですが、健全であり得ることが必要です。なぜなら、問答推論関係が妥当であるとは、前提の問いが健全であり、平叙文の前提が真であるならば、平叙文の結論が真なる答えである、と言うことだからです(ただし、結論が問いになる場合には、別の説明が必要になります)。

 問いが健全なものでありうるためには、それが問いであると理解できなければなりません。「である」や「をする」のような「述語の基底的な部分」を問う問いが、仮にあったとしても、述語の基底的な部分が欠けていれば、それが問いであるかどうかすら不確定です。もしそのような基底的な部分が欠けていれば、語の列は最終的に疑問文になるのかどうか、また肯定疑問文になるのか否定疑問文になるのかどうか、これらも不確定になるでしょう。

 問いが健全であるためには、それが真なる答え(記述や主張)を求める問いであるのか、適切な答え(命令や約束や宣言など)を求めるであるのかを理解できなければなりません。問いは、答えの発語内行為を決定しています。答えの発話は、サールが整理したような様々な発語内行為をおこないます。答えがどのような発語内行為を行うかは、すでにその相関質問によって決定されています(このことは『問答の言語哲学』の第三章で説明しました)。問いは、答えの命題内容に関して、答えの半製品ですが、答えの発語内行為に関しても、答えの半製品です。答えの述語の基底的な部分は、問いにおいて与えられており、答えはそれを継承するからです。問答が、事実に関するものである場合、答えが主張型発話になることは、問いによってすでに決定されているのです。問いが問いになるためには、答えにどのような発語内行為を求めるかを示す必要がありますが、それを表示するのは、述語の最も基底的な部分になると思われます。

以上のように、前々回述べたことは命題についての問答推論的意味論からの帰結の一つであり、前回述べたことは、疑問文についての問答推論的意味論からの帰結の一つです。この二つは共に問答推論的意味論からの帰結です。

次回は「問答関数論」論への反論を検討したいと思います。

68 述語の核心的部分を問うことは出来ない (20220308)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

文が与えられた時、平叙文に限らず命令文や感嘆文などが与えられた時でも、文のほとんどの要素について、それを問うことができます。しかし、その場合でも述語の核心的な部分は、それを問うことができません。なぜなら、述語の核心的な部分は問いが成立するためにも必要だからです。今回はこのことを説明します。

#文のほとんどの要素については、それを問うことができます。

ある文ないし命題が与えられたとき、そのどの部分でも問うことができるように見えます。文「フクロウは夕方に森で飛ぶ」が与えられたとき、「何が、夕方に森で飛びますか」、「フクロウはいつ森で飛びますか」とか、「フクロウは夕方にどこで飛びますか」とか「フクロウは夕方に森で何をしますか」など、どの部分でも問うことができるように見えます。ある文が与えられた時、名詞句であろうと、形容詞句であろうと、副詞句であろうと、前置詞句であろうと、問うことができます。(また真理値を持つ主張文ではなく、真理値を持たない文、命令文や約束文や願望文や宣言文などなどであっても、どの部分でも問うことができます。)

 ただし例外があります。

#述語の核心的な部分は、問われることはない。

与えられた文のほとんどの部分について、それを疑問詞に変えて補足疑問文にすることができます。つまりその部分を問うことができます。ただしあたえられた文の述語の核心的な部分については、問うことができません。なぜなら、その部分を疑問詞で置き換えることができないからです。それは次のような部分です。

 「である」を述語とする文の場合、その「である」の部分を問うことはできません。

「である」は、主語と述語をつなぐ繋辞、同一性の表現、存在の表現、という3つの働きがあります。これらの部分を疑問詞に置き換えることは出来ません。つまり広義の述語の中の核心的な部分を問うことは出来ません。

 通常の動詞の場合にはどうでしょうか。

 「フクロウは飛ぶ」

の場合、「飛ぶ」の部分を次のように問うことができます。

 「フクロウは何をしますか」

つまり、これは元の文を

 「フクロウは、飛ぶことをする」

と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分を問うています。元の文の述語「飛ぶ」を「飛ぶことをする」と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分だけを問い、「をする」の部分を問わずに残しています。通常の動詞の場合には、その動詞を、動作を表す一般名+「をする」という述語に変えて、その一般名の部分を問うことができますが、しかし「をする」という述語の核心的な部分を問うことは出来ません。

このように補足疑問文は述語の核心的な部分を含んでおり、その部分は答えの中に継承される。補足疑問の問答は、述語の核心的な部分の継承なしには不可能です

前回<命題を統一するのは、問答関係である>と述べましたが、それは今回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということとどう関係するのでしょうか?

それを次に考えたいと思います。

67「命題の統一性」の問題 (20220307)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「問答関数」の構想は、「命題の統一性」についての新しい説明を前提していますので、まずこれを説明したいと思います。

#「命題の統一性」の問題

デイヴィドソンは、この問題を次のように説明している。

「英語では、「John mortal(ジョン死ぬ運命)」は文ではない。これが文となるのは、語「is」が名詞と形容詞の間に挿入されたときである。これは構文論ないし文法上の事実である。しかし、コプラの意味論的役割りは何であろうか。」(デイヴィドソン『真理と述定』津留竜馬訳、春秋社、2010、p.100)

つまり、命題の統一性の問題とは、<ある語の並びが文となるのはどうしてか>という問題である。この例では、繋辞によって、語の並びが文に変化している。それゆえに、デイヴィドソンは、「命題の統一性」の問題は「述定の問題」であると見なしている。

#命題を統一するのは、問答関係である

ここで提案したいのは、<語の並びが文となるのは、語の並びが問いに対する答えなることによってである>ということです。

例えば、「これリンゴ」は、次の問いの答えとして発話されるなら文となります。

 「これは何ですか」「これはリンゴ」

この場合「これはリンゴ」は「これはリンゴです」と同じ意味をもつでしょう。もし「です」という繋辞によって、語の並びが文になるのならば、それが欠けているのに文になるということは説明できません。

 しかし、次の反論があるかもしれません。ここでは「です」が欠けているのではなく、省略されているだけである、という反論があるかもしれません。私も、この答えは「これはリンゴです」の省略形であることに賛成しますが、しかしそれは最初の提案の反論にはなりません。その省略が可能なのは、それが「これは何ですか」という問いに対する答えだと理解されているからです。つまり<語の並びが文となるのは、語の並びが問いに対する答えなることによってである>が成り立ちます。

#命題を統一するのは、不飽和な概念語ではない。

 例えば、「このフクロウは飛ぶ」は、単称名辞「このフクロウ」と「は飛ぶ」という述語からなるとしよう。この場合、フレーゲならば、述語は不飽和であり、それが単称名辞で補われることによって、主張文となり、統一化された命題になるというでしょう。しかし、もしこの説明が正しければ、次の例を説明出来るでしょうか。

 「フクロウはいつ飛ぶのですか」という問いに「フクロウは、夕方に飛ぶ」と答えたとしましょう。上の説明が正しければ、「フクロウは飛ぶ」は統一化された命題です。

「フクロウは夕方に飛ぶ」では統一化された命題に「夕方に」という表現が付加されています。この新要素が付加された命題もまた統一化されています。なぜなら、これは「夕方に」が付加される前の文とは異なる真理条件を持つからです。では、古い命題とこの新要素を統一して新しい命題にするのは何でしょうか。それは「は飛ぶ」という述語ではありません。「は飛ぶ」という述語の不飽和部分はすでに古い命題構成するときに使用されているからです。つまり、新しいこの命題は、不飽和概念語「飛ぶ」によって統一化されていないのです。

 ただし次のように考えることは可能です。もし「フクロウは飛ぶ」に「夕方に」が加わって新命題を作るとき、旧命題は一度解体して、<フクロウ、飛ぶ>という二つの表現に分解され、それに新しい表現を加えて、<フクロウ、飛ぶ、夕方>という3つの要素から改めて命題を作るのであり、そのとき述語は、「()は、()に、飛ぶ」という不飽和な二項関数に変化している、と考えることができます。それならば、新しい命題の統一化を「飛ぶ」という不飽和な概念語で説明出来るでしょう。もし、「()はとぶ」出会った述語が、「()は、()に飛ぶ」という新しい述語に変化するのだとしたら、この変化は、「フクロウはいつ飛ぶのですか」という問いにおいてすでにこの変化は生じています。この新しい問いは、新しい述語を使用しているのです。

 しかしこのように考える時、「飛ぶ」を含む述語がいくつ空所を持つかは、予め決まっていないことになります。例えば、「フクロウは夕方に、どこで飛ぶのですか」という新しい問いを立て、それに「フクロウは夕方に、森で飛ぶ」答えるときには、「飛ぶ」は、「()は、()に()で飛ぶ」という不飽和な三項関数だということになります。私達は、このようにして命題に次々に新しい要素を加え続けることができ、述語の「空所」を増やし続けることができることになります。

 このような事例を考える時、「飛ぶ」という述語がさまざまに変化すると考えるのではなく、<問いにおいて、新しい空所が作られ、それを埋める返答が、命題としての統一性を持つことになる>と説明するほうが、簡潔で説得力があるのではないでしょうか。

66 振り返りと仕切り直し (20220306)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまでの経緯を振り返ってから、仕切り直したいと思います。

このカテゴリーの第6パートして56回から始めたのは、ブランダムの「概念実在論」を問答の観点から検討して発展させることでした。(第6パート以前のこのカテゴリーの議論については、このカテゴリーの説明をご覧ください。)

56回において、まず試みたのはブランダムの「概念実在論」を「問答推論実在論」へと展開し、それを吟味することでした。概念実在論とは、<「客観的事実と性質」が概念的である、つまり互いに非両立性や推論的帰結の関係にある>という主張です。もし通常の推論は問答推論の一部として成立すると言えるのならば、非両立的関係と推論的帰結という推論的関係もまた、問答推論関係の部分として成立することになります。したがって、推論的関係の実在性を主張することは、問答推論関係の実在性を主張することになります。<客観的事実と性質が、概念的である、つまり互いに対して問答推論的関係にある>と主張することになります。

57回:問答推論関係は、論理的な関係であって、実際の認識の過程から独立に成立するということを説明しました。ただし、推論が妥当だとしても、その前提や結論が成り立つとは限りません。もし前提が成り立つならば、結論が成り立つという関係が成り立てばよいからです。従って、問答推論関係が成り立つとしても、前提の問いが成り立っている必要はないのです。

58回:ブランダムは、この推論的関係に客観的なものと主観的なものがあり、前者を記述するには、真理様相語彙が必要であり、後者を記述するには義務的規範的語彙が必要であり、この二つの語彙は、互いに意味依存すること、したがって、客観的推論的関係と主観的推論的関係もまた互いに意味依存すると論じていました。このことは、客観的問答推論関係と主観的問答推論関係についても成り立つでしょう。(この相互的意味依存についても、また改めて吟味したいと思っています。)

59回:このように拡張した上で、ブランダム=ヘーゲルの「概念実在論」を受け入れることができるかどうか、特に存在論的な問題を考えようとしました。。

 問答推論的関係は、言語や理論が変われば異なるので、ほとんど無限に多様なものが考えられます。事実は、無限に多様な仕方で語れる無限に多様な構造を暗黙的にもっているのかもしれませんが、次のように考えることもできます。

 私たちは、「これはリンゴですか?」と問われたら、事実に問い合わせ、「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら、事実に問い合わせて、「いいえ、これはナシではありません」という答えます。このとき、事実とは、さまざまな問いの入力に対して、それぞれ一つの答えを出力する関数であると見なすことができます。このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。(このように考える時、問答推論関係は、事実から得られるものですが、事実そのものが持つものではありません。その意味では、概念実在論から少し離れるかもしれません。)

 <事実は問答関数である>というこのアイデアの吟味から、仕切り直して始めたいとおもます。