04 非合理性とは何か? (20200515)

[カテゴリー:日々是哲学]

 哲学でも、「非合理性」が議論されることがしばしばありますが、非常に多様な仕方で語られます。それは行為の非合理性であったり、決定の非合理性であったり、感情の非合理性であったりします。それらの多様な非合理性をまとめて共通要素を取り出して扱うことができるのか、それとも多様な非合理性のそれぞれについて区別して分析すべきものなのか、曖昧なことが多いです。

 そこで、ここではまず次を提案したいと思います。

  <合理性/非合理性は、問いに対する答えがもつ性質である>

現代の真理論では、真理の担い手(truth bearer)と真理の作り手(truth maker)を区別して議論されます。真理の担い手とは、「…は真である」という述語が述定される対象のことあり、命題や発話が真理の担い手とされることが多いとおもいます。真理の作り手とは、真理の担い手に真とならせるものものであり、対応や整合性などが考えられることがあります。真理論については、別途論じることにして、ここでは、この担い手と作り手の区別を「合理性/非合理性」に当てはめて考えたいと思います。

  <合理性/非合理性の担い手は、問いに対する答えである>

 問いの答えは、合理的であったり、非合理であったりするということです。信念、行為、感情、欲求などについて、非合理であると言われることがありますが、その理由は、これらが問いに対する答えとなるからだと思われます。(これらは、問いの答えとして、合理的なものである場合もありえます。)

 これらは、人間の反応や振る舞いの一種ですが、これらとは異質なものである「制度」についも、制度が合理的とか、制度が非合理とか言われることがあります。制度が合理的なものや非合理なものであるのは、制度が問題の解決(問いの答え)であるからである。(社会制度(社会組織と社会規範)が社会問題の解決策であるということについては、カテゴリー「問答としての社会」で論じています。)

 ちなみに「自然は合理的である」と言うことができる。このように語ることができる理由は、自然が問いに対する答えであるからではなくて、自然についての真なる記述が、つねに問いに対する答えとして合理的だからだといえるだろう。

 (問いもまた、それの問い自体が上位の問いの答えであるときには、合理性/非合理性の担い手となりうる。つまり「合理的な問い」や「非合理な問い」がありうる。)

 合理性/非合理性の作り手について、つぎに考えてみます。

14 保存拡大の語彙による事実の明示化 (20200514)

(これまでの話をまとめよう。06回以後の議論をまとめよう。論理的語彙と疑問の語彙は、拡大保存であり、その他の語彙の意味を変えないので、その他の語彙の意味の分析に利用できる。

(自然数論と幾何学の語彙が保存拡大であるかどうかは、ペンディングにして)科学の語彙や日常語は(少なくともその一部は)非保存拡大である。)

 ここでは、表現の意味の明示化に利用できる論理的語彙と疑問の語彙は、同時にまた事実の明示化に利用できることを示したい。

 推論関係によって表現の意味が明示化したり、確定したりできるのは、推論関係が、表現の意味を変えないからである。もし推論関係が表現の意味を変えてしまうとすれば、それによって表現の意味を明示化することはできないだろう。問答によって表現の意味を明示化できるのは、問答が表現の意味を変えないからである。

 論理的な語彙の使用が、他の語彙の意味を変えないとすれば、他の語彙による事実の記述の意味だけでなく、事実の記述の真偽にも影響を与えない。それゆえに、論理的推論は事実の分析に役立つ。事実の論理的分析によって得られた命題(つまり事実についての記述から推論して得られた命題)もまた事実の真なる記述であり、事実を表現している。

 ところで、論理的な語彙の使用が、他の語彙の意味を変えず、それらを持ちた表現の意味の明示化が可能になる、ということは証明できたとして、では実際に表現の意味を明示化することはどのように行われるのだろうか。たとえば、しりとりは、語の意味を変えないゲームである。しかし、しりとりをしても語の意味が明示化できるわけではない。同じように、

  p⊃r、p┣r

という推論は、pやrの意味を変えない。それゆえにこそ、pやrには任意の文を代入できる。しかし、このような推論は、pやrの意味を何ら明らかにしない。

では、推論が表現の意味を明示化できるのはどのような場合だろうか。「これはリンゴである」の導入規則(上流推論)と除去規則(下流推論)で考えてみよう。

これはマッキントッシュである┣これはリンゴである。

これはイブがエデンで食べた果物である┣これはリンゴである。

  これはリンゴである┣これは果物である

   これはリンゴである┣これはバラ科の高木の実である。

これらの推論によって、「これはリンゴである」の意味は明示化される。これらの推論は、ブランダムが実質推論と呼ぶものであり、これらの実質的推論を学習することが語「リンゴ」を学習することであり、これらの実質推論によって意味が明示化されている。

 これらの前提と結論には、論理的語彙(論理結合子)は使用されていないが、推論関係を示す「┣」を「ので」で表現すると次のようになる。

これはマッキントッシュであるので、これはリンゴである。

これはイブがエデンで食べた果物であるので、これはリンゴである。

  これはリンゴであるので、これは果物である

   これはリンゴであるので、これはバラ科の高木の実である。

推論は条件文に言い換えることができるが、実質推論の場合、この条件文が真であることは、語の意味に依存する。言い換えると、語の意味がこの条件文で表現されている。論理的語彙「ので」をもちいたこれらの条件文は、「これはリンゴである」の意味を明示化している。

 推論の前提や結論の中で論理的語彙が使用される場合にも、それらは意味の明示化に役立つ。次のような場合である。

    AはBの西にあり、かつ、BはCの西にある┣AはCの西にある。

    AはBより硬い、かつ、BはCより硬い┣AはCより硬い。

 この推論は、「かつ」の意味だけに依存するのではなく、「の西にある」や「より硬い」の意味に依存している。

 これらの推論の中の論理的語彙は、その他の表現の意味を変えることなく、実質推論においてそれらの意味を明示化するのに役立っている。日常生活における言語使用の多くはこのような推論になっている。

 ところで、このような実質的推論は、意味を定めたり意味を明示したりしているだけでなく、同時に対象や事実を明示している。

これはマッキントッシュであるので、これはリンゴである。

とうい条件文は、「マッキントッシュ」と「リンゴ」の関係を明示化するだけでなく、対象<マッキントッシュ>と対象<リンゴ>の関係を明示化している。「ので」を用いても、もとの語の意味や指示対象に変化を与えないことから、二つの対象が、類と種の関係にあることが明示化されている。

    AはBより硬い、かつ、BはCより硬い┣AはCより硬い。

という推論は、「より硬い」という述語が推移性をもつことを明示しているだけでなく、関係<より硬い>が推移性をもつことを明示している。「かつ」を用いても、もとの表現の意味や真理値に変化をあたえないことから、<より硬い>という事実的関係が推移性をもつことが明らかになる。

 このように保存拡大の語彙を用いることで、意味の明示化だけでなく、対象や事態の明示化が可能になる。そうすると、非保存拡大の語彙を用いても、意味の明示化ができないだけでなく、対象や事態の明示化もできないことになるのだろうか。そうではないだろう。なぜなら、科学研究でも日常の探究でも、私たちは非保存拡大の語彙を用いてそれを行っているからである。

03 プラトンと龍樹から (20200512)

前回の知の成立を説明する上での難問に対するプラトンの答え、より正確には対話篇のなかでのソクラテスの答えは、少し長いですが、次の通りです。

「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれ変わってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何一つとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気を持ち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが――その想起がきっかけとなって、おのずから他の全てのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶということは、じつは全体として、想起するということにほかならないからだ。」

(『メノン』藤澤訳、81C-D)

彼は想起によって知の成立を説明します。これが有名なプラトンの「想起説」です。

ところで、龍樹もまたこれとほぼ同じ論証をしています。

「認識されたもの、あるいは認識されていないものについて疑惑を抱くことはない。(前者はすでに)存在し、(後者はいまだ)存在しないからである。

 このばあい人は、すでに認識された対象か、いまだ認識されていない対象か、あるいは現に認識されつつある対象について疑惑をもつのであるが、すでに認識されおわった対象について疑惑をもつことはありえない。まだ認識されていない対象についても疑惑をもつことはありえない。そして(以上の二つと別に現在)認識されつつあると言われるような、第三の対象も存在しないのである。したがって、疑惑は存在しないのである。」(龍樹「ヴァイダルヤ論」118a、梶山雄一訳(『大乗仏典14』中公文庫)p.208-209)

この「疑惑」を「問い」と置き換えてもよいでしょう。<認識されている対象ついてはもはや問う必要はないし、認識されていないものについては問いを抱くこともできない。したがって、「問い」というものは存在しない>というのがここでの龍樹の主張です。

この主張に対して、龍樹は次のような反論を予想しています。

遠くに、杭であるのか人であるのかはっきりとしない対象が見える時、「あれは杭であるのか、人であるのか?」という問いが生じる。「(対象の)特殊性(についての認識)が欠けているために(起こるの)である」(p.209)

この反論に対する龍樹の応答はこうである。

「もし真知の特徴が欠けているならば、それは無知であって、疑惑ではない。」

「特殊性を見て、知識となり、特殊性を見ない場合には無知が生ずるのである。頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない(で真知となる)のであり、特殊性がない時には無知にほかならない。すなわち、こうなる。特殊性があれば知識となるし、それがなければ無知である。特殊性(の存在)と特殊性の無存在とが同時にあるような第三の場合はないのであるから、疑惑があるとはいえない。」p. 210f)

この反論には納得行きません。なぜなら「頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない」ということを認めるとしても、それではなぜ「「頭をめぐらしたり、手を動かしたりする」のでしょうか、それは疑惑(問い)が生じるからではないでしょうか。(疑惑)問いがなければ、これらの行為を説明できないでしょう。

私は、龍樹が想定している「対論者」の主張が正しいように思います。対象について、一部は知っており、一部は知らないので、その知らない部分についての疑惑(問い)が生じるというのが、対論者の主張です。これに対する龍樹の反論は、対象を部分に分けるとしても、それぞれの部分については、知か無知しかなく、それゆえに疑惑(問い)はない、というものになるのだと思います。

 このような反論を回避するため次のような問いを考えてみたいとおもいます。

  「xさんの車はどれですか?」

この問いは、「xさんの車」がどの車を指示するのかを尋ねています。

フレーゲは固有名(一つの対象を指示する語句)についてSinn(意味)とBedeutung(指示対象)を区別しました(通常は’Sinn’を「意義」、’Bedeutung’を「意味」と訳しますが、わかりにくいのでこのように訳します)。フレーゲは「意味」とは「指示対象の与えられ方」であると考えます。この問いを問う者は、「xさんの車」の意味を理解しています。しかし、その指示対象を知りません。問われた人が、「xさんの車は、あの赤い車です」と答える時、答える人は、「あの赤い車」の意味と指示対象を分かっています。返答者は、相手が「あの赤い車」の意味を理解し、その指示対象に辿りつけるだろうと想定して、この表現を答えに選んでいます。

 質問者が「あの赤い車」の指示対象にたどりつくとき、それが「xさんの車」の指示対象でもあるということです。「あの赤い車」と「xさんの車」はおなじ対象を指示する表現「共指示表現」です。

 問いを問う者は、意味と指示対象の区別にもとづいて問いを設定することができるのではないでしょうか。「その肺炎の原因は何ですか?」と問うことができるのは、「その肺炎の原因」の意味と指示対象を区別しているからです。

02 プラトン曰く (20200511)

「人間は自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。また、知らないものを探求するということもあり得ないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」(プラトン『メノン』藤澤令夫訳、80E)

皆さんは、これについてどう考えますか?

プラトンの答えと、龍樹の答えと、私の答えを、次回にupします。

13 科学の語彙は非保存拡大か? (20200510)

 論理学の語彙が保存拡大であるとして、その次に、ではペアノの自然数論の語彙やヒルベルトの幾何学の語彙が保存拡大か非保存拡大か、を検討したかったのですが、スッキリとした議論ができずに困っています。

 そこで、それらを飛ばして、ここでは自然科学の語彙について考えたいと思います。

 日常の言葉の殆どは、明示的定義や文脈的定義を与えることができないものでした。定義の困難さゆえに、ウィトゲンシュタインは、「家族的類似性」という特徴を上げていました。つまり、たとえば「家」を定義しようとしても、多様な家があって、そこに共通の性質を見つけることは難しく、つまり定義することが難しく、「家」と呼ばれているものの間に、家族的類似性のようなものがあるとして言えません。

 これに対して、科学では語に明確な定義が与えられることが多いのではないでしょうか。科学でも明示的な定義が与えられない用語が多くあると思いますが、ある学術用語を導入するときには明確な定義を与えるはずだと思います。たとえば「covid19」には、RNAの塩基配列についての定義があるのではないでしょうか。ところで、このように明確な定義がある語については、その導入規則と除去規則を連続して適用した後の推論は、保存拡大になると思われます。

#明示的定義の導入は、保存拡大にみえる

「A=B」が「A」の定義であるとき、ここから簡単に次の導入規則と除去規則を作ることができる。  

   x=B┣x=A (Aの導入規則)

   x=A┣x=B (Aの除去規則)

これを連続適用すると

   x=B┣x=B

という推論を得る。これは同語反復であり、Aの導入規則と除去規則を使用しなくても成立する。つまり明示的定義ができる語を導入しても、それ以前の語や文の意味を変えることはない。

#複数の明示的定義の導入は、非保存拡大になる

ある語に明示的定義があっても、その語の導入が、保存拡大になるとはかぎらない。例えば、対象Gの定義がつぎのように二通りあるとしよう。

  ①Gx≡Fx∧Ex∧Hx

  ②Gx≡Ix∧Jx∧Kx

これから

  Fx∧Ex∧Hx┣Gx  (Gの導入規則)

  Gx┣Ix     (これは②からつくれるGの除去規則の一例であり、ほかにもありえます)

この二つから推移律によって、次が成り立つ。

  Fx∧Ex∧Hx┣Ix

この推論は、明示的定義の①と②があったとしても、非保存拡大である。

このように明示的定義があるとしても、それが複数ある時には、その語彙は非保存拡大をもたらし、その他の語の意味に変化をもたらす。例えば、古い定義に加えて、新しい定義が行われるような場合もこのことがおこる。(同じことが、文脈的定義が複数ある時にも生じるが、ここではその説明を省略する。)

ブランダムが「温度」を例に挙げているのは、このようなことである。

「論理学の外部では、これ[非保存拡大]は悪いことではない。科学における概念的な進歩はしばしばそのような新しい内容を導入することにこそ存するのである。温度の概念は、適切な適用に関する何らかの基準ないし状況と、適用の何らかの帰結ともに導入された。温度を計測する新しい方法が導入され、温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用されるときには、温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化するのである。」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳p.97)

「温度」の概念は、「適切な適用に関する何らかの基準ないしは状況」(つまり「温度」の導入)と、「適用の何らかの帰結」(つまり「温度」の除去規則)ともに導入された。しかし、「温度を計測する新しい方法が導入され」(つまり「温度」の新しい導入規則が導入され)、「温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用される」(つまり「温度」の新しい除去規則が導入される)ときには、「温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化する」ということになる。

ブランダムがここで言いたいことは、科学において「温度」の概念が進歩し、複数の導入規則と除去規則が混在するとき時、「温度」の導入規則と除去規則は、保存拡大という性質を失うということだろう。

「温度」について複数の定義があるならば、人文社会学の概念、例えば「権利」についてはさらに複数の定義があるだろう。したがって、人文社会学の概念もまた非保存拡大である。

12 日常語の非保存拡大について (20200509)

 (「温度」の例を説明すると予告しましたが、その前に説明しておきたいことを書かせてください。)

 侮蔑語「ボッシュ」によって非保存拡大が生じることを昨日説明しましたが、「ボッシュ」によるこの非保存拡大はどうして起こったのでしょうか。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである (「ボッシュ」の導入規則) 

   xはボッシュである┣xは冷酷である   (「ボッシュ」の除去規則)

これらに推移律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

しかし、これは「ドイツ人」や「冷酷」の従来の意味だけからは成立しません。つまり、非保存拡大が生じています。結論のこの推論において、これは推論ですから、「ドイツ人」と「冷酷」は、経験によって結合しているのではなく、意味によって結合していることになります。つまり、「ボッシュ」の使用法を認めることで、「ドイツ人」の意味は大きく変化し、「冷酷」の意味もまた少し変化していることになります。

 もしある語の使用を認めることによって、他の語の意味が変化するならば、その語の導入規則と除去規則は、保存拡大(conservative extension)(他の表現の意味を保存して、言語を拡張すること)ではなく、非保存拡大(non-conservative extension)であるといえます。

 このように<ある語の使用を認めることによって、他の語の意味もまた変化することになる>ということは、「意味の全体論」が主張していることでもあります。またこのことは、日常言語では、ありふれたことです。

 たとえば「べジマイト」という語の導入は、他の語句の意味を次のように変えます。「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」という文で「べジマイト」を説明する時、「野菜からつくられたベースト状のもののなかには、べジマイトがある」と言えることになります。ここで「べジマイトは、黒くて苦いペースト状のものである」ということも認めるならば、これと上の「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」から、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」が言えます。これは、「べジマイト」という語を導入する前には、言えなかったことです。つまり、「野菜からつくられたペースト状のもの」の意味が変化しているのです。「野菜」や「黒くて苦いもの」などの意味も変化しています。なぜなら、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」は、「べジマイト」の語の学習のあとでは、経験に基づいて成り立つことではなく、表現の意味に基づいて成り立つからです

 こうして論理的語彙は保存拡大であり、日常の言葉は非保存拡大であることが分かりますが、

その中間にある数学や幾何学や自然科学や社会科学の語彙については、どうでしょうか?

次回はこれを考察して、できれば「温度」の話にまでたどり着きたいとおもいます。

11 非保存拡大について (20200508)

保存拡大を持たない例として、ダメットが挙げているのは、侮蔑語「ボッシュ」である。「ボッシュ」というのは、ドイツ人に対する侮蔑語で、それを誰かに適用する条件(つまり「ボッシュ」の導入期測)は、その人がドイツ人であるということです。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである

その適用からの帰結すること(つまり「ボッシュ」の除去規則)は、

   xはボッシュである┣xは冷酷である

です。これらに推意律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

この推論は、「ボッシュ」を導入する前の語彙と推論規則からでは成立しません。つまり「ボッシュ」の導入規則と除去規則は「保存拡大」ではない、ということになります。

(Cf. Dummett, Frege Philosophy of Language, Harvard UP, p. 454) 

このような侮蔑語、差別語の場合には、典型的には、事実の記述が導入規則の前提になり、価値評価が除去規則の結論になります。これらは「非拡大保存」だといえるでしょう。

Brandomは、「ボッシュ」からの帰結である。「xはドイツ人である┣xは冷酷である」を認めませんが、それが「ボッシュ」が「非保存拡大」であるからではなく、単に推論として受け入れられないからであると言います(ダメットが、この点を、どう考えているのか分かりかねます)。

つまり、Brandomは、侮蔑語以外にも「非保存拡大」の語彙があり、「非保存拡大」であること自体は不都合ではないと考えています。

 では、そのほかの「非保存拡大」の語にはどのようなものがあるのでしょうか。ブランダムが挙げているのは、科学における「温度」の例です。それを次に見ましょう。

10 訂正:「調和」と「保存拡大」 (20200507)

前々回(8)での記述に誤りがあったので、訂正します。

そこでは、「もしある論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときの結果が、その論理的語彙を使用しないで推論できるものであるとすれば、その論理的語彙は、その他の語彙や文の意味を変更していないということである。」と述べ、「ヌエル・ベルナップは、このような導入規則と除去規則を「調和」していると呼んで、論理的な規則の設定の恣意性を制限しようとした。」

と述べました。その後N. Belnapの Tonk, Plonk, and Plink(Analysis 22 (1962): 130-134)読み直して、その論文に’harmony’(調和)が使用されていないことに気づきました。Belnapは、そのような論理的語彙の性質に「保存拡大」(conservative extension)という表現を当てていました。私はこれまで「調和」をベルナップが導入した用語だと思い込んで講義したことがあり、また論文にもそう書いたことがあるだろうとおもいます。ここで訂正し、お詫びいたします。Belnapの論文を読んでいたにもかかわらず、彼が「調和」と名付けたと勘違いしていた原因をこの数日調べていたのですが、おそらくDummettがLogical Basis of Metaphysics (Harvard UP, 1991, p. 246)で、Belnapが、論理法則への制約の一つは’harmony’であるとしていた、と書いていたことが、私の勘違いの原因になったのだと思います。このharmonyは、Belnapが考えていた「保存拡大」よりも少し広い概念です。Dummettは、「調和」と「保存拡大」の違いをよく分かっているのですが、その上で、その本のそこの文脈では、特に区別しなくてもよい、と考えたのだとおもいます。

前々回(8)と前回(9)に紹介した「調和」という語は、すべて「保存拡大」の間違いです。

意味は変化しません。つまり、ある語彙の導入規則と除去規則を設定して、導入規則でその語彙をしようし、次の除去規則でその語彙を除去するとき、その結果生じる推論が、その語彙やそれらの規則を使用する以前の語彙と推論規則で導出できるものであるとき、その語彙の導入規則と導出規則は、「保存的」である、あるいは「保存拡大」である、とBelnapは考えています。

 ダメットは、Frege Philosophy of Language (Harvard UP, 2nd ed.1981, p. 396)で「調和」をつぎのように説明しています。言語の意味は使用であるが、どんな使用方法でも良いのではない。文の使用には2つの側面がある。一つは、文の発話が適切なものになる条件であり、もう一つは発話の帰結である。この二つが「調和」することが、使用方法の条件となると、ダメットは言います。言い換えると、ある語彙を使った文の上流推論を行うことと、下流推論をおこなうこと、という二側面があり、今仮に問題の文をpとし、その上流推論をr┣p(前提が複数の文からなるとしても、それを連言で結合して一つの文にすることができる)とし、下流推論をp┣sとするとき、この二つの推論からr┣sが成立する。このrとsが「調和」することが、言語の正しい使用方法であるための条件であるというのです。rとsが調和するとは、もっとも緩い意味では、rとsが矛盾しないことでしょう。これは、文の使用の整合性が求めることです。しかし、それ以上のこともいえるかもしれません。この調和の「一般的特徴づけ」を語ることは困難である、とダメットは言う。ただし、(論理学のような)単純なケースでは、ベルナップのいう「保存拡大」だと言える(cf. Ibid. p. 397)、と考えています。

 ダメットは、言語使用のための条件を「調和」と呼んでおり、単純なケースでは、その「調和」は「保存拡大」として規定できるが、複雑な場合には一般的な仕方で条件を述べることが困難だと考えています。つまり複雑な場合には、保存拡大という条件を充たさなくてもよいが、しかし「調和」は満たさなければならない、と。

 では、ここで元の道筋にもどって、「保存拡大」でない語の場合を考えてみましょう。例えば、「リンゴ」という語の使用は、非保存拡大でしょうか?「忖度」はどうでしょうか?

09 疑問表現もまた、文の意味を変えない。(20200502)

 疑問表現の意味もまた、その導入規則と除去規則で明示化できるだろう。疑問文には、決定疑問(yes-no疑問)と補足疑問(wh疑問)があるが、決定疑問は特有の構文を持つが、特有の語彙をもたない。そこでまず、補足疑問から考察しよう。

 補足疑問は疑問詞(「どれ」「なに」「だれ」「いつ」「どこ」「どんな」「どのように」など)をもつ。「だれ」は「どの人」、「いつ」は「どの時刻」、「どこ」は「どの場所」、「どんな色」は、「‥の色はなに(どれ)」に、「どのように」は、「どんな仕方」に、さらに「…の仕方はなに(どれ)」などに、書き換えることができる。(「なぜ」以外の)すべての問いは、おそらく「どれ」の問いないし「何」の問いに書き換えられるだろう(「なぜ」の問いの説明は、最後に注とした)。「どれ」と「なに」の導入規則と除去規則は次のようなものである。

「どれ」と「なに」の導入規則

   「aがFです」┣ 「どれがFですか?」

   「aはFです」┣「aはなにですか?」と除去規則

「どれ」と「なに」の除去規則(タイプ1)

   「どれがFですか?」┣ 「あるものがFです」

   「aは何ですか?」┣「aはある集合に属する」(あるいは「aはある性質を持つ」)

疑問詞を除去するもっともありふれた方法は、補足疑問に答えることである。それは次のようになる。(結論は、補足疑問の答えであり、Γと⊿は、その答えを導出するのに必要な平叙文の前提の列である。)

   「どれがFですか?」、Γ┣「aがFです」  

   「aはなにですか?」、⊿┣「aはFです」   

「どれ」の導入規則と除去規則(タイプ1)を連続して適用すると

   「aがFです」┣「あるものがFです」

「どれ」の導入規則と除去規則(タイプ2)を連続して適用すると次の推論が成立する。

   「aがFです」┣「aがFです」

「なに」の導入規則と除去規則(タイプ1)を連続して適用すると

   [aはFです」┣「aはある集合に属する」(あるいは「aはある性質を持つ」)

「なに」の導入規則と除去規則(タイプ2)を連続して適用すると

   「aはFです」┣「aはFです」となる。

これらの導入規則と除去規則を連続適用してできる推論は、これらの疑問表現を使用しないでも可能である。ゆえに、これらの規則は「調和」をもつ。

 したがって、補足疑問の問答は、語や文の意味を変化させない。また補足疑問を用いた問答層推論は、語や文の意味を変化させない。したがって、補足疑問の問答やそれを含む問答推論によって、語や文の意味を明示化できる。問答推論的意味論は、発話の意味を次のように説明することになる。

 決定疑問文による問答が、表現の意味を換えないことは自明だとしてもよいだろう。

<発話の意味を理解するとは、それの正しい上流問答推論と正しくないそれ、正しい下流問答推論と正しくないそれを、判別する能力をもつことである>

次は、このような「調和」という性質を持たない語彙について考えよう。

注、<「なぜ」の問いは、出来事の原因を問う「なぜ」、行為の理由を問う「なぜ」、主張の根拠を問う「なぜ」に分けることができ、それぞれを「原因は何か」「理由な何か」「根拠は何か」と言い換えることができる。>以前、拙論 「三つの「なぜ」の根は一つか」(『メタフュシカ』35号別冊、2004年12月 S.59-68)でこのように論じた。現在も、「なぜ」の問いをこの3種類に分けることができると考えている。ただし、例えば出来事の原因をとう「なぜ」の問いを、「原因は何か」の問いは、全く同じではないと考えるようになった。「…の原因は何か」の答えは「…の原因は、xである」という形式をとるだろう。これに対して、「…は何故か」という問いは、「…」という出来事の説明を求めており、その答えは一つの命題になるのではなく、推論になる。たとえば「p」が出来事の記述であるとき、「なぜpか」という問いは、出来事pの説明を求めており、その答えは、「rであり、sである、ゆえにpである」という推論の形式をとることになる。この推論は、pがなぜ成立したのかを説明している。理由を問う「なぜ」、根拠を問う「なぜ」の場合も、これと同じで、答えは推論になる。「なぜ」の問いは、答えが一つの命題ではなく、推論になる点で、補足疑問とは異質である。

01 「どうやって問いを立てたらよいのか?」(20200501)

 【このカテゴリーは、前に「身辺雑記」というカテゴリー(書庫)であったもののタイトルを換えて、カテゴリーリストの先頭に移したものです。

ここでは日々徒然なるままに考えたことを書き記したいとおもいます。徒然なる哲学日記のようなものです。「日日是問問)」(日々問いを問う)にしようかとも思いましたが、わかりにくいのでこのタイトルにしました。日々の哲学的断想を書き記します。】

 問いは答えの半製品であり、答えよりも問いがより重要であるということを、以前から主張してきました。最近ときどき、問題設定の重要性が語られるようになってきました。そのときによく語られることは「では、どうやって問いを立てたらよいのでしょうか?」という問いです。

 これにどう答えるかは、各人それぞれの目的に依存します。お金を儲けるため、成績を上げるため、より有意義な人生を送るため、世界をよりよく認識するため、などの目的によって、答えは異なってくるでしょう。ただし、どのような目的をもっていても、いつも役に立つ助言の一つは、「より深くより広い問いを立ててください」ということです。(ところで、私は哲学を「より深くより広く問うこと」と定義することを提案しています。したがってこの助言は「哲学してください」と言い換えることができます。)

 より深い問い、より広い問いに対する答えが見つからないとしても、それの答えを見つけようとするなかで、当初の曖昧な目的のためのより適切な問題設定が可能になるだろうと思います。そして、しっかりした問題設定のためには、こうしたことを考える時間が必要であり、気持ちの余裕が必要だろうと思います。