13 人類の理想の未来 (20200713)

[カテゴリー:日々是哲学]

 人類は、経済格差をなくして、全ての人が健康で文化的な生活をするために必要な科学技術を既に持っている、あるいは近い将来にそれをもつようにように思われる。したがって、この科学技術を用いて、全ての人が健康で文化的な生活ができるような社会システムを考えることが、人類にとっての重要な課題である。

 そのためには、全世界の人に、医療と教育を無償で提供し、住まいと食料を賄えるベイシックインカムを保証することが必要だろう。これによって、基本的人権と健康的な生活を保障できるだろう。

 現在の諸国家は、この理想を実現するために、互いに協力し合う必要がある。もしこの理想が実現するならば、諸国家が消えて世界共和国になるかどうかは、どちらでもよいように思われる。

 では、この理想を実現するために解決すべき問題には、どんなものがあるだろうか。(これについて何かコメントを頂けると嬉しいです。)

12 未来予測と問答 (20200712)

[カテゴリー:日々是哲学]

「○○は、これからどうなるのだろうか?」という形式の問いに答えることが未来を予想することである。前回例に挙げた「米中関係は、これからどうなるのだろうか?」「AIと人間の関係は、これからどうなるのだろうか?」などに答えることが、未来予測である。その場合の一つの方法について前回述べたとが、今回は、このような形式の問いとそれへの答えについて考察したい。

 「Aは、これからどうなるのだろうか?」という問いは、次のことを前提している。

  ・Aが存在すること、

  ・Aが未来永劫ではないとしても、ある程度の未来においても存在すること、

  ・過去、現在、未来、という時間の流れが存在すること、

この問いに答えることは、これらの前提を受け入れることあるいは質問者とこれらを共有することである。

 では、人が未来予測の問いを立てるのは何故だろうか? これに対しては、次のような理由が考えられる。

 (1) 知的な関心(理論的な関心)による

 (2) 実践的な関心による

 (2-1) 実践的な問いに答えるために、その未来予測を実践的推論の前提として使用する。

 (2-2) 実践的な問いに答えるために、未来予測にもとづいて、下位の問い(理論的問いや実践的問い)を立てる。

(2-2)の例

  PQ2「たくさんの観光客をまた集めるためにはどうすればよいのだろうか?」

     「コロナのワクチンは、いつ頃できるだろう?」(未来予測の問い)

     「ワクチンができるのは、早くても来年だろう」(未来予測)

  PQ1「ワクチンが完成してから、観光客が戻るまでの期間を短くするにはどうすればよいだ  

      ろうか?」

(あるいは、

  TQ1「ワクチンが完成してから、普及するまでにはどのくらいかかるだろうか?」)

このように、未来予測は、実践的な関心(実践的な問い)に答えるための前提となるか、実践的な問いを立てるための前提となる。

11 未来予想について考える一つの方法 (20200709)

[カテゴリー:日々是哲学]

 今日は息抜きです。

 哲学とは、普通よりもより深くより広く考えることだと思います。それは普通よりも一歩踏み込んで考えたり、一歩退いて考えたりすることです。一歩退いて考える方法の一つは、普通よりも長い歴史的なスパンの中で考えることです。というわけで、私は、人類の出現から始まり未来に伸びる人類の歴史についてトータルに考えてみたいと、つねづね思っています。多くの人が同じような願望を持っているだろうと推測します。

 しかし、人類の未来がどうなるかを予想することはほとんど不可能です。例えば、AIの進歩によって、社会がどう変化するかについて一つの予想を立てることは困難です。しかし、それでも2,3の可能性を想定することはできます。

 例えば、AIの未来について、次のような可能性を想定することができます。

  ①AIは、いずれ人間以上の知性を持ち、人間にとって代わるだろう。

  ②AIが人間のような知性になることは原理的に不可能であり、人間の脳を補助する役割にとどまるだろう。

  ③AIと人間の知性は、いずれ融合して、人工知能であることと自然知能であることを区別することが無意味になるだろう。

この3つの可能性はどれもまだ曖昧です。それぞれの可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。

 また例えば、中国の近未来についての、次のような可能性を考えることができます。

  ①AIや通信技術の利用による経済発展によって、中国共産党の一党独裁が持続する。

  ②外国資本が、中国から逃げて、ベトナム、タイなどの東南アジアの国にシフトすることによって、中国経済は衰退し、共産党一党独裁が終わり、自由主義国家になる。

この二つのシナリオ以外のものもありうるでしようが、とりあえずいくつかの極端なシナリオをせってして、その可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。また、それらのシナリオ中に、そうあって欲しいシナリオがあれば、そのためにどうすればよいのかを考えることも可能になります。

言いたいことは、<未来予測は難しいが、2,3のシナリオを想定して、それを詳細に考えてみることによって、未来予測となすべきことをより明確に考えることができるだろう>ということです。

24 四肢構造と二重問答関係 (6) (0200708)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 今日の課題は、実践の四肢構造を二重問答関係と関係づけることである。

 実践の四肢構造は、次のように表記できる。

能為者誰某は役柄者或者として、実在的所与を意義的価値として、扱う(感じる、欲する、評価する、扱う)>

実践的行為主体は、<能為的誰某―役柄的或者>という二肢性をもつ。この主体の二肢性は、対象の二肢性に対応している。とりわけ、主体の役柄と財態の価値は対応するだろう。例えば、人は教師として、相手を生徒として扱う。より細かく言えば、生徒を勉強の良くできる生徒として、あるいはできの悪い生徒として、あるいは問題児として、あるいは協力的な生徒として、などと教師にとってある価値を持つものとして扱う。ひとは教師として、教室をよく整頓された教室として、あるいは、荒れた教室として、設備の整った教室として、狭い教室として、などと教師にとってある価値をもつものとして扱う。ひとは教師として、黒板を、書きやすい/書きにくい、消しやすい/消しにくい、読みやすい/読みにくい、大きい/小さい、などと教師にとっての価値をもつものとして認識する。このように、主体の役柄と財態の価値は対応するだろう。

実践的態度は、行為を基本とするだろう。例えば、

   ひとは、教師として、生徒たちに数学を教える。

   ひとは、夫と父親として、妻と子供の生活のためのお金を稼ぐ。

数学を教える行為を、お金を稼ぐためにおこなうのだとすると、次の四肢構造がある。

   <ある教師は、夫と父親として、数学を教える行為を、お金を稼ぐこととして、おこなう>

ここでは、教師にとって、数学を教えることは、お金を稼ぐための手段であるが、もちろん場合によっては、数学を教えることは、教師の生きがいであり、生活費を稼ぐことは、その目的のための手段になっている、ということもあるだろう。

 実践的態度の中心は行為である。一般に、行為は目的を持ち、行為はその目的を実現するための手段となる。様々な行為が集まって、一つの〈役割行為〉を構成するとき、個々の行為の目的は、この役割行為の実現だということができる。例えば、「リンゴを売る」という〈役割行為〉は、リンゴを磨く、リンゴを分類する、リンゴを並べる、リンゴを勧める、リンゴを袋に入れて手渡す、代金を受け取る、などの多くの行為からなる。さらに、リンゴを含む多くの果物を売る、多くの果物を仕入れる、売り上げをみて仕入れ量を決定する、などの多くの〈役割行為〉をすることが、「果物屋」という〈役柄〉をこなすことである。これは次のように表現できるだろう。

  <人は、果物屋(役柄)として、ある行為をリンゴを売ること(役割行為)として行う>

ここでは、〈役柄〉は「役柄的或者」を示し、役割行為は「意味的価値」を示している。

 前回、行為の束が〈役割〉をつくり、〈役割〉の束が〈役柄〉をつくると説明しました。これに基づいて実践の四肢構造を表現すると次のようになる。

  <主体は〈役柄〉的或者として、ある行為を〈役割行為〉として行う>

 では、この四肢構造を二重問答関係と関連付けるにあたって、問答関係について振り返っておきたい。私たちは、問答関係を二種類に区別できる。一つは、理論的な問いと理論的な答えである。理論的な問いとは、真理値を持つ命題を答えとする問いである。理論的な答えとは、真理値を持つ答えである。もう一つは、実践的な問いと実践的な答えである。実践的な問いとは、ある目的を実現するためにどうするか、あるいはどうすべきかを問うものである。この答えは真理値を持たない。ただし、適/不適、正/不正の区別を持ちうるが、これらの区別を持たない場合もある。

 このような問答の区別を導入する時、二重問答関係は、次の4種に区別される。まず二重問答関係を一般的に次のように表示する。

   Q2→Q1→A1→A2

これは、<問Q2を解くために、問Q1を設定し、その答えA1を得る。このA1の前提の一つとする推論によって、Q2の答えA2を得る>ということを示している。

 ここで理論的問いをTQ、実践的問いをPQと表記する時、二重問答関係は、次の4種類になる。

   ①TQ2→TQ1→A1→A2

   ②PQ2→TQ1→A1→A2

   ③PQ2→PQ1→A1→A2

   ④TQ2→PQ1→A1→A2

(④のケースについては、「17 理論的問いは、実践的問いの上位の問いになりうる? (20200618)」で論じた。)

Q1に焦点を当てて、理論的な問いTQ1の二重問答関係は①と②となり、実践的な問いPQ1の二重問答関係は③と④となる。

 ここでは、実践的問いの二重問答関係、③PQ2→PQ1→A1→A2について、それと四肢構造の関係を考察しよう。例えば、ある人が果物屋として行為する目的が、家族持ちとして生活費を稼ぐことにあるとすると、次の二重問答関係があると言える。

  PQ2「私は、家族持ち〈役柄〉として、生活費を稼ぐためにどうすればよいのか?」

  暫定的A2「私は、家族持ち〈役柄〉として、果物屋を営めばよい」

(これは不完全な答えである。なぜなら、果物屋を営むためにどうすればよいのか分からなければ、答えとして役立たないからである。)

  PQ1「私は、果物屋〈役柄〉として、果物屋を営むためにどうすればよいのか?」

  A1「私は、果物屋〈役柄〉として、リンゴを売るという〈役割行為〉をすればよい」

(もしリンゴを売るためにどうすればよいのか分かるならば、これは完全な答えである。もしこれがPQ1への完全な答えであるならば、PQ2の完全な答え(A2)でもある。)

 これで 四肢構造<私は、果物屋〈役柄〉として、リンゴを売るという〈役割行為〉をする>と二重問答関係は、明確だろうか。以上から、次のように言える。

<認識や行為は、理論的問いや実践的問いの答えと理解できる。したがって、認識や行為の四肢構造は、理論的問いや実践的問いへの答えがもつ四肢構造でもある。これらの問いはより上位の問いをもち、それを考慮する時、二重問答関係にある>

問題は、これから何が言えるか、である。「四肢構造」と「二重問答関係」のこの関係から何が明らかになるのだろうか。

 廣松の四肢構造は、私には、まだあいまいな点がおおいが、しかしそれでもそれは重要な指摘だという感じがある。他方で、二重問答関係があらゆるところに見られることは明らかであり、ここの問答を認識活動や実践活動の中に位置づけようとするとき、有用な指摘になるだろう。そして、この二つは、上記のような必然的な関係にある。

 ただし、この関係から何が言えるのかは、まだ明瞭ではない。

23 四肢構造と二重問答関係 (5) (20200706)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 廣松は、実践における主体を、二肢性「能為的誰某-役柄的或者」においてとらえる。私たちの行為はすべて社会的文化的に他者から期待されている行為であり、ある役割をもつ行動(役割行動)である。

「挨拶などの日常的な儀礼行為からして演技であり、食事の仕方や排せつの仕方のごときまで、人間行動の様式は文化共同体に内属する他人たちによって期待されている行為方式に応ずる役割演技の構制になっており、まさに「呼吸の整え方」から「箸の上げ下ろし」に至るまで、人間行動はことごとく役割行動として営まれていると言って過言ではない。」(『存在と意味』第二巻、p.107)

「能為的主体の他の能為的主体の期待に応えての行動を役割的行動と呼ぶ。」(『存在と意味』第二巻、p.99)

一定の役割行為をまとめて行うことで、社会の中である<役柄>を行うことにある。役割行為を行うことは、ある役柄を引受けることである。ある<役柄>はいくつかの<役割>の束であり、ある<役割>はいくつかの<行為>の束である、と言えるだろう。それゆえに、私たちが行為する時、「役柄的或者」として行為することになる。私たちは、常に何らかの役柄、「男性」「夫」「父親」「会社員」「課長」などとして行為する。

 ところで、廣松は「役柄的或者」として行為する者を「能為的誰某」とよぶ。例えば、「人が課長として、部下に指示する」とき、「人」が「能為的誰某」である。この時の人は、「社会人」や「会社員」や「男性」などの役柄をまとっているかもしれない。これらの個々の役柄を脱ぎ捨てることはできるとしても、全ての役柄を脱ぎ捨てることはできない。「裸の主体」「裸の私」というものは存在しない。<形相のない質量>がないように、<役柄のない行為主体>は存在しない。

 そこで能為的誰某自身もまた、さらに分析するならば、二肢構造「能為的誰某-役柄的或者」を持っていることが分かるだろう。たとえば「課長は、コロナ感染者として、会社を休む」というとき、先の「課長としての人」自身は、「コロナ感染者」という「役割的或者」と結合するとき、「能為的誰某」となる。このように主体の二肢構造についても、対象の二肢構造の場合と同様に、第一肢はそれ自体が下位の二肢的統一態でありうるし、この二肢的統一態自体が、第一肢となって、より上位の二肢的統一態を構成しうる。

 主体の役柄は、他の役柄と結合している。例えば、「父親」の役柄は、「母親」「子供」「息子」「娘」などの役柄との関係において成立し、「課長」の役柄は「部長」「係長」などの役柄との関係において成立する。したがって、役柄的或者は、他の役柄的或者との、役柄の相互承認によって成立する。

 実践的主体の二肢の在り方と、実践の対象(財態)の二肢の在り方は、次のように関連している。

「財態「実在的所与-意義的価値」の現前様態は主体「能為者誰某-役柄者或者」の形成相在に応じて変容し、返っては亦、主体の在り方は財態の現前仕方に応じて変貌する。」(『存在と意味』第二巻、p.190)

 次に、この実践の四肢構造を二重問答関係の観点から考察したい。

22 四肢構造と二重問答関係 (4) (20200704)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 廣松渉は、『存在と意味』第1巻では、「認知的関心の構えに対して展ける」認識的世界を説明し、第2巻では、「実践的な関心の構えに対して展ける」実践的世界を説明する(全集16巻p.5)。実践的世界は、用在的財態(zuhandenseinede Gueter)と人格的主体(能為的主体)からなる。実践における対象は、二肢性「実在的所与-意義的価値」を持つとされ、実践における主体は、二肢性「能為的誰某-役柄的或者」を持つとされる。

 認識における四肢構造は、次のように語られた。

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

これに倣って言うならば、実践における四肢構造は次のようになるだろう。

  <能為的誰某が役柄的或者として、実在的所与を意義的価値として扱う>

 まず、対象(財態)の二肢構造を説明しよう。

「実践的な関心の構えに対して展らける世界現相の分節態(=用在的財態)は、そのつどすでに、単なる認知的所与より以上の或もの(価値性を”帯びた”或るもの)として覚知されている。」(全集16巻p.5)

認識というのは、起源においても本質においても、実践(行為)のためのものであるから、認識は実践の一断面である。したがって認識の対象は実践の対象に含まれる。この実践の対象は、<実在的所与―意義的価値>という二肢性をもつが、認識の対象は価値性を帯びていないので、認識の対象は、<実在的所与>となる。これが実践の対象となる時には、何らかの価値性が付加されることになる。二肢性をもつある実践の対象が、実践的所与として、別の価値を付加されて、別の実践の対象となることがある。実践の対象は、常により上位の実践にとっての<実在的所与>となりうる。

 ここで簡略化のために、二肢的二重性が<BとしてのA>とか<Aより以上のBとして>と語られるとき、このAを「第一肢」Bを「第二肢」と呼ぶことにしよう。認識でも実践でも、ある対象の二肢の統一態(廣松はこれを「等値化的統一態」と捉える)において、この第一肢は、それ自体が下位の二肢的統一態でありうるし、この二肢的統一態自体が、第一肢となって、より上位の二肢的統一態を構成しうる。この下降や上昇がどこかで停止するだろうが、しかし対象の二肢構造は、認識や実践の構造であるので、認識や実践が成立する限り、その対象は二肢性を持っている。同様のことは、主体の二肢性についても言えるだろう。

 さて、実践の対象の二肢性をより詳しく説明しよう。

 「ピカピカ・キラキラ・テカテカ・チカチカ」(p.8)感性的体験は、一定の表情価(情動誘起価+反応性向価)をもっている。「白々・黒々・赤々・青々」という色覚も同様であり、「ネバネバ・スベスベ・ベトベト・ツルツル・ブワブワ」という触覚も同様である。さらにいえば「”無表情”もまた一種の表情にほかならないのである」(p.8)

 「ピカピカ」という表情価をもったものは、二肢性(机の表面という実在的所与 + ピカピカという表情価(意義的価値))を持っているが、これに「新品みたい」とか「清潔そう」とか「高級そう」などの意義的価値が添付すると、それ自体が別の実在的所与となる。

 このような表情価は低次の意義的価値の一つである(cf.13)。

 「まず知覚的認知が行われ、→それにともなって情動的興奮が生じ、→そこで一定の即応的行動が起始する」といった三段階の継起で考えられがちであるが、それはむしろ特別な場合であって、一般的には、「三契機が同時相即的に体験される」(p.7)という。純粋に認識的な関心で世界を見る時には、このように継起するかもしれないが、大抵は実践的な関心の中で生きており、実践的な関心にたいして世界は、表情価(意義的価値)をもったものとして現れるのである。それゆえに、この三契機は「同時相即的に」体験される。

 実践における対象(財態)がもつ意義的価値には、どのようなものがあるのだろうか。

 廣松が、例として上げるのは、一つは、価値=情動説の論者が説く「快・不快、好・悪、真・贋、善・悪、美・醜、聖・俗である。これは価値を主観的なものと考える「主観価値説」であるが、これは「対象そのものは価値を持たず、価値はあくまで主観内部の特殊な心的状態にすぎない」と考える立場である。これに対して、廣松は、価値=感情説をとらない。それは、「実在的所与」はレアール(個別的・定場所的・変易的)なものであるのに対して、「意義的価値」はイデアール(普遍的・超場所的・不易的)な存在性格をもつ(p.153)と考えるからである。廣松は、これらの価値について、価値=感情説とは異なった理解をするが、これらの論者が「感情的」な価値と考えているものも想定している。

 廣松が取り上げるもう一つの例は、経済学上の価値論であり、商品の使用価値と交換価値である。

これらの例とは別に、意義的価値について、より一般的に次の7つの区別が説明されている。

(1)興発的価値感得(歓好-嫌嫌)

(2)比較認的価値評価(撰取-貶置)

(3)欲動的価値希求(渇抑-抑斥)

(4)当為的価値応対(促迫―禁制)

(5)期成的価値企投(追求-忌避)

(6)照会的価値判定(適じゅう-反か)

(7)述定的価値判断(承認-否認)  (p.46)

『存在と意味』第二巻、第一編、第一章での財態の二肢性についての説明は、印象的な具体例による説明が少なく、正直なところ全体として非常にわかりにくい。この説明のわかりにくさの理由の一つは、実践の対象が、(理論的認識とは対比される)実践的な認識の対象として考察されており、行為の対象として考察されていないことにあるように思われる。この点については、主体の二肢性の説明を確認してから検討したい。

 次に、実践における主体の二肢性「能為的誰某-役柄的或者」をみよう。

08 ネットの中での行為と認識 (20200628)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

 哲学では、伝統的に観想(テオリア)と実践(プラクシス)、認識と行為、言葉と行為を分けることが多いが、ネットの中でこの二つは区別できるのだろうか。

 ネットの中で行為することは、入力することである。たとえば、アマゾンで本を買うことは、本を選んで購入ボタンをクリックすることである。ネットの中で認識することは、グーグルで検索し、記事を選んでクリックし、それを読むことである。求める記事が見つからないときには、見つかるまで、検索に使用する語句を変更してやり直すことになる。記事が見つかれば、その記事を手掛かりに(もし必要ならば)さらに情報を探すことができるだろう。ネットの中では、行為も認識も記事を選択してクリックすることである。

 ネットの中での問うことは、語句を入力して検索することであり、答えをえることは、検索結果の表示を見ることである。ネットの中で問いかけられることは、クリックするかどうかの選択を迫られることであり、答えることは、クリックしたり、取りやめたりすることである。

07 権利を問答の権利として捉えることのメリットは何か? (20200627)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

<アクセス権>

 プライヴァシ-や知的所有権など新しく登場してきた権利を捉えるのに有用である。とりわけ、ネット社会における権利関係を説明するのに有用である。なぜなら、ネットの中における行為とは、情報交換、言い換えると問答しかないからである。したがって、ネットの中での権利は、問答の権利である。

 ネットの中での権利として特徴的なものの一つは、サイトへのアクセス権である。多くのサイトは、パスワードによって、特定の個人や集団にだけアクセス可能なものである。

 このアクセス権をどのように説明できるだろうか? アクセス権がないとは、あるサイトの中に入って質問したり、発言したりすることができないということである。アクセス権は、サイトの中での問答の権利である。

 たまたま手に入れたパスワードで、他人の情報をみることは、ただ見るだけで、悪用するのではないとしても、違法であるだろう。なぜなら、そのサイトの中の情報をみることは、そのサイトに問いかけて、答えを得ることに他ならないからである。これは、住居侵入に似ている。ただしここでの住居は、サイトであり、問答空間である。

(ネット社会に特有の権利として、他にどんなものがあるだろうか?)

#問題

 すべての権利を問答の権利に還元することは、あらゆる時代と社会の権利について成り立つことなのか、それとも西洋近代社会、とりわけの発展である現代社会において、始めて十全に成り立つようになったことなのか?

 その答えは、おそらく前者である。 ネットの中に限らず、人間社会は、ヒトの群れが言語を獲得して人間社会となって以来、コミュニケーションで出来ている。それは、<社会がコミュニケーションによる合意によって構成されている>ということだけでなく、<社会は、社会的事柄についての問いや答えの義務と許可と禁止のルールによって構成されている>

 対象Oについての情報は、AがBに質問してもよいもの/質問できないもの、Bが質問に答えられないもの/質問に答えるべきもの/Bが答えなくてもよいもの、などから構成されている。

21 四肢構造と二重問答関係 (3) (20200626)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(行為の四肢構造を考察すると予告したが、帰省中で手元に廣松の『存在と意味』第2巻がないので、前回の内容をもう一度検討しておきたい。)

 前回、認識の四肢構造と二重問答関係を関連付けるために、四肢構造を次のように解釈した。廣松が、認識の四肢構造を論じる時に念頭に置いているのは、主として対象の知覚行為である。そこでは、彼は命題形式を持つ認識内容について言及していない。しかし、仮に知覚報告として言語化されていない知覚行為であっても、すでに言語的に分節化されている。したがって、知覚が四肢構造をもっているのならば、認識内容が命題形式を持つ場合にも、四肢構造が成り立つだろう。

 他方で、発話は問いに対する答えとして明確な意味をもつのだとすると、認識は問いに対する答えとして成立することになる。そして、認識が四肢構造を持つのならば、問いに対して答えることも四肢構造をもつことになる。それは、次のように理解できるのではないだろうか。

・知覚における対象の二肢構造

  <<ガンの画像>としてのレントゲンの白い部分>

知覚のこの二肢構造は、発話の「レントゲンの白い部分は、[ガンの画像]Fである」という焦点構造に対応している。知覚のゲシュタルト構造(地図構造)が<として>構造に対応する。そして、知覚の地図構造が、発話の焦点構造に対応していると考える。

・主体の二肢構造

 <「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」を問うものとしてのひと>

発話は、大抵は(少なくとも暗黙的に)問いに対する答えとして成立する。したがって、ひとは問う者として、発話する。問うことは探求行為であり、探求行為には、目的がある。その目的を実現できれば探求は成功であり、その目的を実現できなければ、探求は失敗である。

 知覚にも成功と失敗がある。錯覚、幻覚はもとより、よく見えない、よく聞こえない、というのも知覚の失敗である。つまり、知覚も目的を持つということである。その目的は、問いの答えを見つけるということである。

 理論的な問いに対する答えを求める過程は、大抵は推論となる。問いの答えが知覚報告である場合、知覚報告は言語的な推論の結論として導出されるのではない。しかし、問いに答えるために知覚にとりかかる時、その知覚行為は、一種の探索行為である。探索行為としての知覚は、推論と同じく、問いに答えるプロセスとして成立する。知覚において、ゲシュタルトを知覚するとは、ある箇所に注目するということであり、それは発話において、焦点部分に注目することに似ている。

知覚のゲシュタルト構造が、知覚の<として>構造であり、発話の焦点構造が、発話の<として>構造である。発話の焦点位置は、その発話がどのような問いに対する答えであるかによって決まる。(もちろん、言語を持たない動物の知覚もゲシュタルト構造をもつだろう。それは、言語を持たない動物も探索するからである。すべての動物は、探索行動をおこない、そのための感覚器官をもつだろう。知覚がどのようなゲシュタルト構造をもつかは、探索の目的に依存するだろう。)

 廣松は、『存在と意味』第一巻の第一篇で「現相的世界の四肢構造」を論じ、第二編で言語論を扱うのだが、残念ながらその言語分析において、四肢構造を展開していない(それはなぜだったのだろうか?)。私たちは、上記のような仕方で、命題形式の認識についても四肢構造を読み取ることで、四肢構造論をより拡張できるだろう。

 ただし、このように四肢構造を理解する時、廣松が考えていた。<現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関している>という対応付けは出来なくなる。(対象の二肢構造と主体の二肢構造がどう関係するのか、については、行為の四肢構造を考察した後で改めて考えたい。帰省から戻る来週になります。)

20 四肢構造と二重問答関係 (2の仕切り直し) (20200623)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

廣松の言う認識の四肢構造は、

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

であるが、これを簡略化すると次のようになる。

  <ある主体が或者として、ある所与を或物として、認知する>

この四肢構造論は、私には、非常に啓発的であるように見えるが、しかし、この四肢構造論をさらに展開したり応用したりするような研究は現れていないように思われる。そこで、「二重問答関係」を用いて、四肢構造論を発展させたいというのが、私の意図である。

 しかし、前回とりかかった「四肢構造論」と「二重問答関係」の結合はうまくゆかなった。

前回最後に、「廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい」と述べたが、それを考察しても、「四肢構造論」と「二重問答関係」の結びつけはうまくゆきそうにないので、以下では、仕切り直して、前回部分を丸ごとやり直すことにする。

#二重問答関係の例1

   犬小屋を作ろう思って、ホームセンターの木材売り場に行き、「どの板がよいだろうか?」と問い、ある木の板をみて「この木はなにだろう?」と問い、「これは杉の板だ」と答える。

「これは杉の板である」から、「杉の板は丈夫ではないが、加工しやすい。犬小屋の板はそれほど丈夫なものである必要はない。この杉の板は安い。この杉の板がよいだろう」と答える。

Q2「どの板がよいだろうか?」→Q1「この木は何だろう?」→A1「これは杉の板だ」→A2「この板がよいだろう」

このような二重問答関係があるとしよう。ここでは、次のことが成立している。

・犬小屋を作ろうとするものとしてQ2を問う。

・Q2に答えようとするものとしてQ1を問う。

・Q1を問う者として、A1を答える

・Q2を問う者として、A2を答える。

・この例でわかるように、問うのは、より上位の目的のためである。「その目的の実現を実現するにはどうすればよいのか?」という実践的な上位の問いをとくために、問いを立てるという関係にある。

・この例でわかるように、答えるのは、問う者として、であると言えそうだ。他者から問われたときには、問う者と答える者が同一でないが、そのときでも、答える者は、問われたものとして答えるのである。答えるのは、問う者として(あるいは問われたものとして)答えるのである。

以上を四肢構造に即して表現すると次のようになる。

 <Q1を問う者は、より上位の問いQ2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとは、Q2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとは、Q1を問う者として、A1を答える>

#二重問答関係の例2

 Q2「この人は健康だろうか?」という問いに答えるために、「Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」を問い、A1「それは、肺がんの画像(意味的所識)である」と答える。

この答えから、Q2の答えA2「この人はガンに侵されている」を得る。

 <ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとはQ1を問う者として、答えA1を得る>

 <ひとはQ2を問う者として、答えA2を得る>。

廣松のいう認識の四肢構造は、次であった。

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

この四肢構造で、上記の問答関係を表現すると、例えば次のようになる。

  <人は、Q1を問う者として、答えA1を得る>

対象の側である答えA1は、二肢構造になっていないが、しかし答えの命題は、問いにおいて既に与えられている部分と、答えの中で新しく提供される焦点部分に分かれており、その焦点構造を<として>構造として解釈できる。それは次のようになるだろう。

  <レントゲンの白い部分は、[ガンの画像]Fである>

  <<ガンの画像>としてのレントゲンの白い部分>

上記の例のなか、<ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>については、対象の側の二肢構造を、   

  <(空白)>としてのレントゲンの白い部分>

のように解釈できるだろう。

廣松は、認識の四肢構造を、知覚を念頭に分析しているので、対象が二肢構造(<として>構造)をもつことになる。これは、知覚のゲシュタルト構造(地図構造)とうまく一致する。しかし、認識を「私はpを知っている」などの命題的態度として捉えると、「知識についての問答関係論」(これについては、いずれ説明します)には都合がよいのだが、四肢構造論を当てはめることに無理があるのかもしれない。

次に行為の四肢構造を考察しよう。