5 分人主義とラディカル・デモクラシー

                                  久しぶりに森に帰ってきました
 
 
5 分人主義とラディカル・デモクラシー(20140530)
 
 平野啓一郎の「分人主義」を、同調圧力から帰結する日本的な発想として捉えるのではなく、現代的なものとして捉えようとする時、その主張は、ムフのラディカル・デモクラシー論が主張する主体の有り様と似ているようにみえる。
 ムフは、「主体」概念に批判的であると紹介されることもあるが、そうではない。彼が否定するのは、「単一的な主体の理念」であって、「主体」そのものではない。彼は、ロールズの自由主義が主張する「負荷なき自我」に対する共同体論者の批判を認める。つまり、自我は他者や社会から独立に何の社会的な負荷もなしに主体たりうるわけでない。自我は「社会的諸関係に先行して存在すると想定される主体」なのではない。常に一定の社会関係の中で、あるいは一定の共同体の中で主体たりうるのである。しかし、ムフはその共同体を「単一な共同善の理念によって統合され」た共同体であるとは考えていない。その意味で、彼は「単一的な負荷な自己」も、「単一的な位置づけられた自己」も批判する(参照、シャンタル・ムフ著『政治的なるものの再興』千葉真、土井美徳、田中智彦、山田竜作訳、日本経済評論社、p. 41)。
 ムフは、「われわれは、つねに多数の矛盾をはらんだ主体なのであり、多種多様な共同体――現実にわれわれが参与する社会関係やそれらによって規定される主体位置ほどの数にのぼる共同体――に住む住民でもある。これらの共同体は、さまざまな言説によって構築されており、またそれらの主体位置の交差するところでかろうじて一時的に縫合されているだけである。」(同書、p. 42)という。
 ムフの主張の中で「分人」にほぼ対応する概念だと思われるのが「主体位置(subject positions)」(p. 156)という概念である。彼は「社会的行為主体」を「一元的な主体」として考えるのではなく、「複数の主体位置が一定のまとまりをもって結合したもの」として考える。「主体位置」は言説によって構成されるものであり、「異なった主体位置を構成する諸言説のあいだには、アプリオリで必然的な関係はない」(157)。この「複数の主体位置の結合体」もまた「特定のディスコースの内部で構成されるもの」(p.143)であるしかもその主体位置の多元性の「共在」が重要なのではなくて、「むしろ他の主体位置による絶えざる破壊と重層的決定」(p.157)が重要なのである。
 ムフは、このような複数の主体位置の偶然的な結びつき(「節合」(articulation)p.158))としてとしての主体が、われわれの現実の有り様であり、これを単一の主体として捉えたり、この接合を必然的なものないしアプリオリなものとして捉えることを、強く批判する。
 それはなぜだろうか。複数の主体位置が矛盾しあうことには、どういう意味があるのだろうか。
 
 
 
 

 

4 分人主義は、日本的な発想か、先端的な発想か

 
4 分人主義は、日本的な発想か、先端的な発想か (20140516)
 
 分人主義は、<同調圧力の強い社会の中で、社会や他者との対立葛藤を避るために、自分の主張や慾望を抑制して、自己内に矛盾を抱え込む>という特徴をもつのだろうか。
 平野氏によると、「分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。」(p. 7) 彼の考える分人は、個人主義の個人のように社会から分離・独立したものではなくて、相手とのコミュニケーションの中で成立するものである。もしそうならば、集団主義的な日本人(?)と同じく、分人もまた、相手との関係において対立を避けるために、自己を抑制することになるだろう。分人は、相手との関係において対立を避けるために抑圧した自己を、別の人や集団を相手にする別の分人において解放するのかもしれない。それによって、自己矛盾を解決しようとするのかもしれない。しかし、それなら、会社員が会社で押さえ込んだ不満を、飲み屋で解消しようとすることとかわらない。違いがあるとすれば、この会社員が本音と建前の区別として理解していることを、どちらも本音である二つの分人として理解することである。
 もし分人主義をこのように理解するのならば、それは旧来の本音と建前の自我論とは異なるにしても、やはり<同調圧力の強い社会の中で、社会や他者との対立葛藤を避けるために、自分の主張や慾望を抑制して、自己内に矛盾を抱え込む>という日本的な(?)自我論の一種となる。
 
 では、分人主義を、日本に限らず多元化が進む現代世界に必要とされる自我論だと理解しようとするとどうなるだろうか。現代社会では、私たちが生活する上で付き合う人々や集団は以前より多様になっている。インターネットや携帯電話などの新しいコミュニケーションのチャンネル増えたこと、国際化が進んで多様な文化の人々との交流が増えていること、などの理由が考えられる。それらの多様な相手に、一様な仕方で対応することは困難である。そこで、それぞれの場面で、パーソナリティを切り替えることが必要になる。職場で、家庭で、ネットで、親類の集まりで、分人を使い分けることになる。
 これは従来の役割論とどう異なるのだろうか。従来の役割論は、一人の個人が複数の役割を引き受けていることを認める。例えばその役割の一つに「夫」があるといえるだろう。しかし、「夫」の有り様は、夫によって千差万別である。役割論は、そうした社会的な役割カテゴリーの束として個人を捉えるのだろう。しかし、分人は、社会的なカテゴリーとは別である。妻を相手にしているときの分人は、人によって様々である。それらの分人を「夫」分人として分類することに意味は無い。私が複数の分人の束だとしても、それは社会的なカテゴリーの束ではない。一つ一つの分人は、一般的なカテゴリーなのではなくて、一つ一つの分人は、個人が固有性を持つの同様に、固有性を持っている。
 
 分人の一つ一つが固有性をもつということ、分人の一つ一つが本当の自分であるということ、これらが従来の自我論と異なるところである。それに加えて、平野氏は、次のように、分人同士が矛盾することを積極的に評価する。
「一人の同じ人間が、まったく思想的立場の異なるコミュニティーに参加しているとする。個人として考えるなら、それは矛盾であり、裏切りだ。…しかし分人の観点からは、これが可能となる。それぞれのコミュニティには、異なる分人で参加しているからだ。そして、むしろまったく矛盾するコミュニティに参加することこそが、今日では重要なのだ。」「私たちは、一人一人の内部を通じて、対立するコミュニティに融和をもたらしうるのかもしれない。」(p. 173)
平野氏は、分人同士が矛盾するのは、ある分人として我慢したことを、他の分人として発散するという文脈ではなく、「対立するコミュニティ」に属するそれぞれの分人が矛盾するのだと考える。そのような矛盾する分人を抱える人によって、むしろ対立するコミュニティの融和の可能性を探ろうとする。
 自己のうちに矛盾を抱えるのは、弱さの現れであり、状況から圧力のせいであるとかんがえる限りは、平野氏のこのような文脈での矛盾の説明にも関わらず、分人主義は、日本的な態度の現代版であると言えそうにも見える。
 ただし、自己のうちに矛盾や葛藤を抱えるということが、単に社会の同調圧力の結果という意味だけでなく、自己のうちの矛盾に関してはもう少し複雑な事態が在るかもしれない。
pan style=’FONT-FAMILY:”serif”;’> 「自己にとって矛盾や葛藤とはどのような意味があるのか」それを次に考えてみよう。
 
 
 

 
 

3 自己矛盾に寛容な社会と分人主義

                

 
 
3 自己矛盾に寛容な社会と分人主義 

(20140511)

「日本社会は、社会の和を重視するために、個人の自己矛盾に寛容である」
もしこのように言えるとすると、そこからさらに、「日本社会は、矛盾に寛容である」と言えるかもしれない。しかし、これを学問的に証明することは難しいかもしれない。いまのところ、そもそも何を示したら証明したことになるのかすらよくわからない。とりあえずできそうなことは、日本文化史の中に証拠となる言説事例を探すことである。
 
 現在の以下の情況もまたその事例となるだろう。安部首相は、本来は憲法9条を改正して軍隊を持てるようにしたいのだろう。つまり、彼は、憲法9条と自衛隊の保持が矛盾しており、憲法9条を解釈することによって、自衛隊の保持を可能だと考えることには無理がある、と考えているはずである。それにも関わらず、憲法9条の解釈によって集団的自衛権を持てるようにとすることは、彼のこれまでの考えと矛盾するはずである。このようなあからさまま矛盾に彼はなぜ無頓着なのだろうか。また社会はなぜ首相のそのような矛盾を批判しないのだろうか。マスコミの弱腰もあるが、日本社会が一般的に、矛盾に寛容なためではないだろうか。これを許しているということは、日本社会が議論が力を持たない社会になっていることを許しているということである。
  
・1990年代以後の自我論の流行
 1989年の冷戦終了後のグローバル化の中で、国家は共産主義国家への対抗の必要がなくなったために政府は福祉を切り捨て、代わりにボランティアを利用しようとし、会社は社員を使い捨てにし始めた。そのために人々は、会社に自己同一化する会社人間であることができなくなり、人々のアイデンティティが揺らいでいる。宗教への依存は、オームリ真理教事件のために抑えつけられ、国家への依存が強まりつつあるために、現在、ナショナリズムが強まりつつ在るのではないかと推測する。こうしたアイデンティティのゆらぎの中で、1990年代以後、自我論や自分探しが流行しているのではないだろうか。
  
・こうした自我論の流行の中で登場した平野啓一郎の「分人主義」について考えてみたい。近代的「個人主義」は、個人(individual)はそれ以上分けられない存在であると同時に、個人は社会から分けられ独立した自由な存在である、と考える。それに対して、平野の「分人主義」は、個人がさらに複数の分人に分けられると考えるが、「分人dividualは、他者との関係においては、むしろ分割不可能である」(平野啓一郎『私とは何か』講談社現代新書、p. 164)と、つまり他者と密接に結合しており、人間は、「他者との分人の集合体だ」(p.164)と考える。この書物を私が最初に読んだときに感じたことは、自分の生活実感をうまく表現してくれているということであった。そして、それがある意味で未来的な自我のあり方を捉えていると感じた。しかし、日本社会では、強い同調圧力が、自己内に分裂をもたらしているのではないかと考え始めてから、この分人主義というものも、そういう日本社会に特有の発想であるかも知れないと思い始めたのである。
 考えたいのは、この分人主義が、<同調圧力のために、自己内に分裂をかかえる社会に特有の思想>なのか、それともこれは<社会が多元的になってきたために生じた先端的な思想>なのか、ということである。
 前回述べたように、社会からの同調圧力が高いために自己の主張や慾望を抑え、そのために自己内に矛盾や葛藤を抱え込む、ということは、「本音と建前」として日本人におなじみの事柄だといえるだろう。
 平野氏は「分人主義」を、古臭い「本音と建前」とは異質のものだと考えている。両者の第一の違いは、「本音と建前」では、本音がいわば「本当の自分」だと考えられているが、これに対して、平野氏は「たった一つの「本当の自分」など存在しない」(『私とは何か』p. 7
)「裏返していうならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である」
(p.7)ということである。
 現代の多くの論者が「本当の自分などない」と言うのに対して、たった一つの本当の自分はないが、多くの本当の自分があると考える点で、平野氏の主張はユニークである。
 
 このような分人主義は、同調圧力の強い社会に特有のものなのだろうか?
 
 

2 同調圧力と自我の分裂

                                    登山家に山が必要なように、人生には壁が必要です。
 
2 同調圧力と自我の分裂(20140503)
 日本の政治家は、しばしば公人と私人の区別によって発言や行為の責任を回避しようとする(日本以外にもあるのかもしれないが)。公人としての発言と私人としての発言が、異なるテーマに関する発言であるならば、たとえば、政治についての公的な発言と、趣味についての私的な発言であれば、それらが矛盾することはないだろう。つまり役割の使い分けとしての公私の使い分けは必要なことだ。
 人には複数の役割があり、会社員、夫、父親、友人、自治会員、スーパーでの買い物客、ドライバー、などである。それぞれの役割に応じて、すべき行為、考え発言すべき内容やその相手が異なる。政治家として、政治的発言をし、私人として買い物をすることは別のことである。通常はそのテーマや内容はことなるので、互いに矛盾することはない。
 ところが、である。友人と話しているときに、会社の悪口を言ったとしよう。それがブログを通じて会社にバレたとしよう。そのために、会社がその社員にペナルティーを課したとしよう。これはしかたのないことではないだろうか。会社にバレなければ、問題にはならないが、バレてしまったとしたら、会社での発言と友人に対する発言との矛盾の責任は引き受けなければならないのではないか。
 これは政治家の場合も同様である。同じテーマに関して公人として発言し、またそれと矛盾することを私人として発言し、その矛盾が公的に知られた場合には、その矛盾の責任を引き受けなければならないだろう。これは、昔から言われている本音と建前の矛盾だろう。本音と建前が矛盾しており、本音が公になり、建前との矛盾が公になった時、その責任を取る必要がある。逆に言うと、それがわかっているからこそ、人は建前と矛盾する本音を公の場で隠すのだ。
 役割の使い分けとしての公私の使い分けは、必要なことだが、本音と建前の使い分けとしての公私の使い分けは許されない。
 しかしこれだけでは、政治家の公私の使い分けの問題はスッキリと分析された気がしないのだが、うまく捉えきれないので、別の角度から考えてみたい。
 
 本音と建前の区別というのは、何か日本的なもののような気がするのだが、なぜそう感じられるのだろうか。日本では、聖徳太子の時代から「和をもって尊しとなす」とされ、他者との協調性が重視された。KYもその流れである。和を保とうとすると、人は自分の意見や慾望を抑えなければならない。そうするとそこに本音と建前の使い分けが生じ、社会や他者との葛藤は、本音と建前の矛盾として自己のうちに持ち込まれることになる。
 日本人にとっては、自己の中に本音と建前の矛盾があることは、よくあること、あるいは常にあることと考えられており、倫理的に許されないこととは考えられていない。社会の和を乱すことは悪いことであり、自己の中に矛盾を抱えることは悪いことではないと思われているのではないだろうか。(仏教によれば、自我など存在しないのだから、一つの「本当の自分」をもつ必要はなく、自分の中に矛盾があっても倫理的には問題にならないのかもしれない。)日本人は、自己の中の矛盾が社会に公になることによって社会の和を乱さない限り、各人の内部の矛盾に寛容であり、社会内の矛盾や衝突に不寛容である。
 西洋社会がそうであるかどうか分からないが、個人の自己同一性を重要視する文化があるとすると、その文化においては、個人の自己同一性を貫くことによって、他者や社会と衝突が生じることに人々は寛容であるだろ。社会の中に多様な人がおり、他人と異なった意見をもち、対立する慾望を持った人々が生活しており、社会の中に常に様々な葛藤が存在することが普通だと考えることになるだろう。自己同一性を確保しようとすると、社会の分裂(不和)に寛容になり、逆に、社会の和を重視しようとすると、自己の矛盾に寛容になる。
 

1 公人と私人の使い分け

                    春の夜の職場です
 
(「問答としての社会2」での議論が、まだまだ時間が掛かりそうです。まだ国家の誕生まですら行っていません。そこで、すこしこの書庫に寄り道したいと思います。)
 
 1 公人と私人の使い分け(20140421
 
 この書庫では、まず、最近気になっている「立場の使い分け」という問題から考察を始めたいと思います。それは次のような問題です。
 NHK会長の政治的な発言が問題になったときに、彼は、その政治的な発言は個人としての発言であり、会長としての考えでないと釈明した。このような個人と公人の区別による釈明は、釈明として成り立つのだろうか。
 ある人物Xが、二つの異なる役割ABをもち、XAとしてaを発言し、Bとしてbと発言したとしよう。この二つが無関係な発言であれば、そこには何も問題は生じないだろう。しかし、その二つの発言が矛盾するとしたら、その矛盾は、Aとしての立場とBとしての立場の違いによって、解消できるものだろうか。
 これについて、しばらく考えたいと思います。
 
 

11 原始共同体内の問答(6) 共同体の歴史

               数日前の満開のサクラです。今年はなぜかサクラに心を動かされませんでした。
 
11 原始共同体内の問答() 共同体の歴史 (201404014)
 前回、共同体の同一性について述べたが、それに関連して付け加えるべき事柄が残っていた。それは、記憶の問題と、他の共同体との区別関係である。
 まず、記憶について。前回見たように、共同体の自己同一性は、記憶ないし集団的記憶を必要とする。記憶は通常、対象の記憶とエピソード記憶に分けられる。動物には対象の記憶はある。犬が、数年前飼い主であった人を記憶していたとか、イルカが、20年前の仲間を記憶していた、というような報告がある。しかし、動物のエピソード記憶の存在は報告されていない。なぜなら、エピソードの記憶は、エピソードの語りとして確認できるが、動物は言語で語ることができないので、動物がエピソード記憶をもつことを確認することができないからである。これに対して人間はエピソード記憶を持つ。
 言語によって人は、エピソード記憶を持つことが出来、さらに自分の人生についての記憶(自伝的記憶)を持つことができるようになり、それが共同体のなかで確認されることによって人格の同一性が成立することになるだろう。これと同様に、共同体もまた共同体の出来事についての人々の記憶を互いに確認しあうことによって、共同体にとっての出来事の記憶を共有する事になるだろう。これを集団的記憶と呼ぶことにしよう。この集団的記憶によって、共同体の歴史を共有することができ、それによって共同体の同一性や歴史が社会的に構成されることになる。人の人生は、家族の歴史や数十人の部族の歴史のなかで部族の歴史の一部として構成される。
 共有知が形式であり、その内容となるのが概念体系(文化)であり、それと類比的に、共同体の自己同一性が形式であり、その内容となるのが共同体の歴史である。共同体は、集団で記憶を共有することによって、歴史を共有する。
 エピソードの集団記憶によって可能になることの1つは、集団全体でおこなう約束である。未来のことを約束しても、それが当事者たちに記憶されなければ、約束は成立しないが、集団的記憶によって、未来の行為についての約束が可能になる。集団全体で行う約束によって、集団内に掟が成立する。おそらく、集団内の複数の人間の間の約束というのは、おそらく部族全体の取り決めが拘束力をもつものとして成立するようになった後で、初めて成立するだろうと推測する。なぜなら<約束できる個体>というような観念は、共同体全体での取り決めが成立する前には、成立しなかっただろうと推測するからである。

 

10 原始共同体内の問答(5) 共同体の同一性

                                            あるお祝いでお花をいただきました。ありがとうございました。
 
10 原始共同体内の問答() 共同体の同一性 (20140406)
 問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答えその4。
 答えその1は「共有知」の成立であり、その2は「文化」の誕生、その3は「規範」の登場であった。その4は、「共同体の同一性」(の構成)である。
 誰が集団のメンバーであるのかについての共有知が成立し、文化や規範を共有していることについての共有知が成立する。これらによって、狩猟採集する数十人の遊動集団が、一つの集団を構成することもまた共有知となる。サルの群れもまた、他の群れと容易に融合したりせず、その意味で一つの集団を形成しているといえるだろう。しかし、彼らは、その群れが一つの群れであることを互いに知っているのではない。「私の集団」とか「私たちの集団」とか「この集団」と呼ぶことはない。言語を持つ人の集団では、このような指示表現によって、人は自分たちの属する集団を同定し、この同定をメンバーが共有することによって、集団の同一性が集団的に構成される。
 集団の同一性の説明は、人格の同一性の説明と似たものになるだろう。人の細胞や組織が入れ替わるように、集団のメンバーは、その誕生と死によって、入れ替わる。そのとき、変化しないものは、文化である。これは、人の細胞や組織が入れ替わっても、その人の容姿が変化しないのと類似している。もちろん、人の姿形は、年齢とともに連続的に変化し
てゆくが、それは文化も同様である。姿形の変化の連続性によって、人格の同一性を保証するためには、変化の連続性を記憶によって保証する必要がある。この記憶の正しさを保証するものは、物理的な証拠、他人の記憶などである。集団の場合にも、集団の同一性を保証するのは、文化の連続性や集団の歴史についての記憶であろう。集団についての幾人かの記憶を集団のメンバーで共有し、あとの世代に伝えるということが行われてゆく。仮にこのような記憶を「集団的記憶」と呼ぶならば、このような集団的記憶によって、集団の同一性(物語的な同一性)が集団的に構成される。(後の議論になるが、国家と人の関係は、共同体と人の関係よりも、より抽象的であるので、国家の統合にとっては、同一性は、共同体にとってよりも、より重要なものになるだろう。)
 
 

 

9 原始共同体内の問答(4) 規範の登場

 
9 原始共同体内の問答() 規範の登場 (20140329)
前々々回の問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答えその3。
 答えその1は「共有知」の成立であり、答えその2は「文化」の誕生であった。この二つから、規範性が生じる。
 一定の言葉(概念)の体系を共有することは、文化を共有することである。言葉の使用はある種の規範性をもつ。その規範性は、子供が「あれはオオカミだ」といったときに、「そうだ」とか「いや、あれはオオカミではない」などといって言葉の使用法を肯定したり、訂正したりするときに、明らかになる。<もしある言葉で何かを意味したいならば、その言葉の使用法に従うべきである> 
 

 このような言葉に関する規範性をとりあえず次のように分けることができるだろう。

 

①言葉の使用には、正しい使用と間違った使用がある。言葉の理解には、正しい理解と間違った理解がある。私たちは、言葉を正しく使用し、正しく理解すべきである。
②私たちは、真なる文ないし命題を語るべきであり、偽なる文ないし命題を語るべきでない。
③私たちは、真であると思うことを語るべきであり、偽であると思うことを語るべきでない。(誠実に語るべきであり、嘘をつくべきではない。)
④私したちは、約束をするときには、誠実にすべきである。
⑤私たちは、約束を守るべきである。
 
このような言葉の規範性は、ダメット、マクダウェル、ブランダムなどによって近年強調されている。これに対して、言葉の使用法がもつ規範性は、突き詰めれば何らかの実用的な有効性から説明できるのであり、規範的規則性は、非規範的な規則性に還元可能であると考える(Cf. Horwich, Meaning, chap. 8)批判がある。このような批判は、たとえば、一般的な形でいうと、<言葉を使うことで、実用的な効果Eを得たいのならば、言葉の使用規則Rに従うべきである>という批判になる。つまり、使用規則Rの規範性は、効果Eを達成したいという前件が成り立つことに基づいているのであって、元の条件法そのものには規範性はないという批判になる。しかし、この前件が成り立つことを私たちが理解すること(あるいは、条件法全体を理解すること)もまた、言語(の正しい使用)による。したがって、それらもまた一定の規範性を想定している。人の集団が言語を獲得し、文化を獲得したならば、私たちはその外部に出ることはできないのであり、言語がもつ規範性の外部に出ることはできない。
 (以上の主張は、言語の意味の規範性を否定するHorwichに対する批判になりうるだろうと推測している。言語の使用の規範的規則については、非規範的な規則で説明できたとしても、この説明自体はやはり真である必要があるだろう。つまり、何らかの言葉の使用法に従うべきである。)
 
 言語や文化の規範性は、共有知によって発生する。(これについては、もう少し詳細な論証が必要だろう。ただし、この書庫ではここまでとする。)
 

 

8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生

                                  満開の桜です。ソメイヨシノではないので、毎年早く咲きます。
                今日は大学の卒業式です。おめでとう御座います。
 
 
8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生 (20140323)
前々回の問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答え、その2。
 
前回は、人の自己意識と共同体の共有知がうまれたことを、重要な差異の一つとして述べた。今回は、そこで行われる問答について考えてみよう。
 
問答が行われるとき、言葉を共有していること、つまり語の意味や構文の意味の理解が、共有知となっていることを伴う、ないしは前提する。しかし、言葉を共有することは、同時に世界についての一定の認識を共有することである。「オオカミ」の意味を知ることと、オオカミ(語「オオカミ」の指示対象)が何であるのかを知ることは分離不可能である。
「オオカミだ」というとき、それが人を襲う危険な動物であることの理解の共有があるだろう。世界についての共有認識の基礎的部分は、危険な動物/危険でない動物、食べられるもの/食べられないもの、仲間/よそ者、昼/夜、人/動物、男/女、などの区別からなるだろう。
 
唐突に思えるかもしれないが、これらの区別の総体が、私たちの社会の「文化」の基礎部分である、と考えたい。「文化」とは、言語によって境界線を引くことや区別を立てること、あるいはそれら境界線や区別の総体である、と定義することを提案したい。(異なる文化間の境界は、それぞれの文化の中で、自文化/異文化という境界として存在する。)
 
「あれはオオカミか?」「あれは人か?」「あれは食べられるのか?」などの問いは、それぞれに対応する区別を設定したり、再確認したりするものであり、それに答えることは、その区別を個別的な事物に適用することである。「あれはオオカミか?」「そう、あれはオオカミだ」という一組の問答を共有することと、一つの文化が成立することは、同時である。言葉の獲得によって、人間集団は、こうした文化(問答体系)の中に住むことになる。これは「ノイラートの船」であり、その外部に出ることはできない。
(Neurath's boatについては、http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803100229963などを御覧ください。)
 
 

 
 

原始共同体内の問答(2)

 
7 原始共同体内の問答(2) (20140322)
前回「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」という問いを立て、それに答えようとしたが、うまく答えることができなかったので、もう一度試みたい。
 
西田正則によれば、「サルや類人猿などの高等霊長類は、互いに認知している100頭ていど以内の社会集団(単位集団)を形成し、その集団に固有な一定の地域(遊動域)を、毎日のように泊まり場を移りながら生活している」(西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、p.15)。西田は、この本で何度か「互いに認知している100頭ていど以内の集団」というフレーズを用いている。言語を獲得した後の人の集団も「互いに認知している100人程度の以内の集団」ということができるあろう。しかし、言語の獲得によって、「互いに認知している」の意味は、全く異なるものになる。
 
サルは、群れの個体を同定できるので、そこに新しいサルがやってきたときに、群れの仲間ではないとわかるだろう。そして、それを排除しようとするだろう。しかし、サルには自己意識がない。例えば、サルは、ビデオに写っている自分の好きな雌をそれとして同定できるが、それと一緒に写っている自分が自分だとはわからず、怒り出すというTV番組を見たことがある。サルも類人猿も、鏡やビデオ映像を見て自分だとは分からない。サルには自己意識がないので、おそらく<自分が群れの一員だと他のサルが分かっている>ということを意識することはない。(これに関する比較行動学の知見があれば、教えて下さい。)
 
これに対して、言語を獲得した人類は、「互いに認知している100人ていど以内の集団」であり、よそ者をよそ者だと認知できるが、それだけでなく、<自分が集団の一員であるということを他のメンバーもわかっている>ということをわかっている。この意味で、「互いに認知している」の意味は、サルや類人猿の群れの場合と人の集団の場合では非常に異なる。
 
言葉が成立するためには、「オオカミ」でオオカミを指すことを、みんなが知っていることをみんなが知っていることをみんなが知っているというような「共有知」の成立が不可欠である。「然々の人たちがこの集団のメンバーである」ということが共有知になっており、集団についてのこの種の共有知が、まさに集団を構成する不可欠な要素となっている。
サルの群れには、社会構築主義は妥当しないが、人の集団には、社会構築主義が妥当する。