理論的問答関係の中に、論理的語彙、論理的規則、様相概念、規範概念、などがすでに内在していることを、このカテゴリーでも、前回リンクした研究会での私の発表原稿でも論じました。そのときには、気づいていなかったのですが、同じことは、実践的問答関係、宣言的問答関係でも言えるだろうと気づきました。それを証明することが、ここでの課題です。
#実践的問答関係の中に、論理的語彙や論理的規則が内在しています。実践的問答とは、意思決定を求め、それに応える問答です。理論的問いに対する答えが正しいとは、その答えが真であるということです。それに対して実践的問いの答えは、意思決定であり、意思決定に真理値はありません。しかし、意思決定にも正/誤の区別はあります。実践的問いの答えが正しいとは、その答え(意思決定)が実行可能であることです。
実践的問答は、例えば次のようなものです。
「うどんにしますか」「はい、うどんにします。」
この問答の中にすでに、否定の関係と矛盾律が暗黙的に含まれています。
#否定関係、矛盾律は、実践的問答にも内在する
「うどんにしますか」
という実践的問いに対しては、「はい、うどんにします」と「いいえ、うどん以外のものにします」(あるいは、「いいえ、そばにします」「いいえ、カレーにします」など)という肯定と否定の答え方があります。この二つの答えの候補は、共に実行可能です。どちらの答えも、他者にとっては、正しい答えです。(もちろん、その答えが嘘の答えであること、つまり答える者が、うどんを食べるつもりがないことはありえます。それは問答の規範性の問題であるので後で論じます、)
肯定と否定の両方の答えの可能性があることは、問い自体に含まれています。したがって、この実践的問い自体に、否定の関係が内在しており、肯定と否定の両方を同時に応えることはないこと(なぜなら、それを認めるならば、問うことは無意味になるからです)、つまり矛盾律も内在しています。(場合によっては、うどんを食べた後で、そばも食べることができるかもしれません。しかし、同時に二つを食べることは出来ません。もしできるとすれば、その場合には「うどんとそばを同時に食べる」は、第三の別の行為になります。この場合には、答えの候補には、「うどんを食べる」「そばを食べる」「うどんとそばを同時に食べるか」が含まれることになるでしょう。)
では、ここでの否定や矛盾律は理論的問いに内在するそれらとどう異なるのでしょうか。
*理論的問答に内在する否定と矛盾律と、実践的問答に内在する否定と矛盾律
実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律と本質的に同じものであり、後者が基礎的であり、それを行為に適用したものが前者であると考えられるかもしれません。しかし、実践的問答は理論的問答に依拠して成立するのではなく、両者は等根源的です。あるいは、発生の上からすると、実践的問答の方がより原初的であるかもしれません。それゆえに、実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律からは独立に成立したものと考えられます。この二つには、次のような異質なところがあります。
・理論的問答:「これはりんごですか」「それはリンゴです」
「それはりんごではありません」
・実践的問答:「これを食べますか」「それを食べます」
「それを食べません」
理論的問答のこれらの二つの答えも、実践的問答の二つの答えも、どちらも両立不可能です。
どちらも、二つの答えの両方にコミットすることはできません。ただし、理論的問答の場合のコミットメントは、事実の在り方についてのコミットメントであり、実践的問答の場合のコミットメントは、行為に向かうコミットメントです。
事実へのコミットメントが両立不可能であることは、事実が両立不可能であることによるのではありません。なぜなら、二つの事実があって、その二つが両立不可能なのではないからです。一方が現実の事実であるなら、他方は可能な事実です。このような限定によって「事実」を区別するならば、現実的事実にコミットし、同時に、可能的事実にコミットすることが可能です。
これに対して、実践的問答の肯定と否定の答えがコミットしているのは、(これから行う未来の)行為です。両立不可能なのは、(これから行う未来の)行為です。未来の二つの行為はともに可能ですが、しかしこれから同時に行うことは不可能です。
理論的な問いに内在する両立不可能性は、現在の事実に関するものであり、両立不可能性自体も、現在の事実的な両立不可能性です(これを「理論的両立不可能性」と呼びたいとおもいます)。実践的な問いに内在する両立不可能性は、未来の行為に関するものです(これを「実践的両立不可能性」と呼びたいと思います)。。
条件法とMPについては、次回に述べます。