(遅々として議論が進まなくてすみません。このカテゴリーでは、問いに対する答えが真であるとはどういうことか、という認識論の問題を考えています。真なる命題は、さしあたり、論理的数学的に真である命題と、経験的に真なる命題に分けることができます。前者は、論理的概念、論理的規則に基づくものであるが、それらは問答関係、特に理論的問答関係によって構成されるということを論じてきました。それに対して、後者の経験的に真なる命題は、経験的概念の定義に依拠していると考えられます。定義の宣言自体は、真理値を持たないが、それを反復するとき、その発話は真理値を持つ主張になると思われます。以上のことを念頭に置きながら、定義宣言型発話について考察したいと思います。)
#定義には、正/誤の区別はない。
これまでみた主張宣言には、正/誤(真/偽)の区別があり、行為宣言にも正/誤(実現可能/不可能)の区別があります。しかし、定義宣言には、この意味の真・偽の区別、実現可能性/不可能性の区別はありません。定義宣言は、正/誤の区別をもたず、適切/不適切の区別だけがあるです。例えば、ある子供に名前を付けるとき、兄と同じ名前、あるいは、父親と同じ名前をつけるとすれば、この名づけは不適切ですが、間違っているとは言えないとおもいます。兄弟が多くて、一人の兄の名前と同一であることを忘れて、同一の名前を付けたとするとき、その人は間違えたのですが、しかしその命名が間違いなのではなく、兄の名前と重複していない、と判断したことが間違いだったのです。
また例えば、ある子供に「ソクラテス」と名付け、それにつづいて、その後「ソクラテスニアラズ」という名前をつけるとしましょう。この二つの名前をつけることは、誤りではありません。しかし、紛らわしいので不適切な定義です。また、子どもに「悪魔」と名付けることも誤りではありませんが、不適切です。なぜなら、名前をつける目的(他者と区別して取り出すこと、その子を尊厳を持つものとして扱うこと、など)に反するからです。
#二種類の定義:対象の指示を前提する定義と前提しない定義
名づけることは、定義の一種だと思います。名づけるときには、ほとんどの場合、名づけの対象はすでに指示できるもの、同定できるものとして存在しています。これに対して、定義の場合には、定義の前に対象が指示可能なものとして成立している場合もありますが、定義によってはじめて対象を指示できたり同定できたりする場合もあります。後者の場合、私たちは、定義によってはじめて対象を世界から切り出し、同定しますが、その切り出し方に正/誤はありません。適/不適の区別があるだけです。
ちなみに、どちらの定義も、他の語句を必要とします。前者の定義は、他の語によって対象を指示したり同定したりするので、他の語の定義を前提します。これに対して、後者の定義の場合には、事前に対象の同定をしないので、そのための語を必要としませんが、後者の定義の場合にも、定義が被定義項と定義項からなると、定義項を構成するための語句を前提します。また文脈的定義にも、他の語句を必要とします。
#どちらの定義の場合にも、定義に依拠する真理は、再認に依拠する
ところで、一旦語を定義すれば、私たちはそれに拘束され、正しい使用法と誤った使用法の区別が生じます。例えば、ある子を「ソクラテス」と名付けたならば、その同じ子についての「この子はソクラテスである」は真となり、別の子についての「その子はソクラテスである」は偽となります。ある色を「赤」と定義したならば、同じ色のものを「これは赤ではない」と言うことは出来ません。これらにおいて、定義したときの対象を「再認」することが不可欠です。
ここにつぎのような問いが生まれます。
「再認はどのようにして成立するのか」
「再認をどのようにして正当化できるのか」
これらの問題は、ウィトゲンシュタインが指摘した規則遵守問題でもあります。規則遵守問題が解決できなければ、定義を説明できません。
次回は、再認の問題を考えたいとおもいます。
宣言問答において、論理関係や様相関係や規範関係が構成されるかどうか、というここで論じるべき問題は、この再認問題と結びついています。