[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
#原因を誤解する場合
一般的に原因と結果の関係を考えるとき、一つの結果は常に複数の原因を持ちえます。したがって、信念についても、ある信念を引き起こす原因には、常に複数のものがありえます。したがって、信念の原因だと思っている事実が、本当の原因であるとは限りません。このように原因を誤解するとき、その信念がたまたま真であるだけでは、知識を正当化できていません。
例1:時計が3時を指して止まっているのだが、ある人が、たまたまその時計を3時に見て、「今は時だ」と思ったとしよう。このとき、それは真であるが、しかし、時計が3時を指していることの原因は、時刻が3時であることではなく、時計が壊れていてたまたまその針が3時を指していたことである。
この場合、信念はたまたま真ですが、信念が表現している事実がその信念の原因になっていません。これは伝統的な知識の定義「知識=正当化された真なる信念」をみたすが、知識とは言えないという反例です。これを避けるために、Alvin Goldmannは論文A Causal Theory of Knowingで「知識の因果説」を主張しました。
#原因の誤解の可能性に気づいていない場合(逸脱因果の場合)
ある地域には、偽の納屋がたくさんあります。しかしそのことを知らない旅行者が、たまたま本物の納屋を見て、「納屋がある」と考えたとき、その考えは、本物の納屋があるという事実を原因として成立しています。しかしそれが偽物の納屋である可能性に気づいていないので、「納屋がある」という信念は、知識とは言えないと思われます。(これは「知識の因果説」への反例であり、「逸脱因果」と呼ばれます。これは、Alvin Goldmannが論文Discrimination and Perceptual Knowledge指摘しまた。)
#このどちらの場合も、原因と結果の関係が、1対1ではなく、多対1であることによって生じています。因果関係をもとに結果からその原因を推理するとき、原因と結果が、多対1であるために、間違った事実を原因と見なすことがありえますし、また、ある事実を正しく原因と見なしても、偶然にそうなっているだけのことがあり得ます。このような原因の複数性は原理的なものです。では、<私たちはどのようにして、ある事実を原因として想定するのでしょうか>。この場合、原因の特定は、問いに対する答えを求めることとして成立するのだと思われます。
上の例では、その地域に、偽の納屋があることを知っていれば、その人は「あれは本物の納屋だろうか」と問い、仮に本物の納屋を見ていても、それが本物の納屋だと判断できなければ。「あれは納屋だ」とは答えないでしょう。本物の納屋だと判断するには、根拠が必要です。つまり、知識であるためには、対象との間に因果関係が成立しているだけでなく、そのことを知っていなければなりません。そして、その場合に、対象(納屋)との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、偽物の納屋の可能性を排除しなければなりません。本物の納屋との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、対象が偽物の納屋ではないことを知っている必要があります。そのためには、それを確認できるところまで、対象に近づいて見ること、あるいは近づいて触ってみることなどが必要です。
しかし、偽物の納屋の可能性があると思っていないならば、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは、人が住む家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクター、などでなく、納屋だろうか」という問いであり、その対象が、家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクターなどでないことを確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。つまり、「あれは納屋か」と問い、通常の納屋の特徴が見えた時に、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。
それに対して、偽物の納屋の可能性があると思っているときには、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは本物の納屋だろうか、それとも偽物の納屋だろうか」という意味で問われ、偽物の納屋でなく、本物の納屋である特徴を確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。二つの場合では、「あれは納屋だろうか」と問うときの注目点が異なります。それに応じて、答えの「あれは納屋だ」の意味も異なります。一方では、「あれは納屋だ」は、「納屋の特徴を持つ建物だ」という意味であり、他方では、「あれは偽物のなやではなく、本物の納屋だ」という意味になります。
偽物の納屋がある地域で、そのことを知らずに「あれは納屋だろうか」と自問し「あれは納屋だ」と答える者は、間違っているのでしょうか。「あれは納屋だ」が、「あれは納屋の特徴を持つ建物だ」という意味で問われているのならば、それが偽の納屋であったとしても、本物の納屋であったとしても、それは正しい、と言えるかもしれません。
逸脱因果の場合であっても、その問いに対する答えとしては、その答えはある意味では正しい、と言えるのではないでしょうか。人は、問いに応じた厳密さで答えるのあり、偽物の納屋のある地域でそれを知らずに、「あれは納屋だろうか」という問いに、「あれは納屋だ」と答えることは、問いに応じた厳密さを満たした正しい答えであるのではないでしょうか。
逸脱因果の事例は、知識とは言えない、という主張も理解できます。知識を問答ではなく、命題として考えるとき、逸脱因果事例は、知識ではないと言えますが、厳密にいえば、<逸脱因果の可能性をとりのぞくことはおそらく不可能なので、知識は不可能である>ことになります。これを回避するには、<単独の命題ではなく問答のペアを知識としてとらえる>ことが重要です。<逸脱因果の可能性に気づくとき、その問いの意味は変化し、それに対する答えの求め方も変化します>。