今回は、理論的問いのより上位の問いが、宣言的問いである場合について考えたいと思います。
宣言的問いとはどのようなものでしょうか。理論的問いと実践的問いの答には正/誤の区別があります。理論的問いの答えの正しさは、その真理性であり、実践的問いの答えの正しさは、その実行可能性です。では、宣言的問いの答え(宣言発話)に正/誤の区別はあるのでしょうか。このことを考えたいと思います。
#ここでは宣言型発話を次の4種類に区別したいと思います(この区別は、私がこれまで述べてきたものと少し違っています。一つは、命名宣言と定義宣言を一つにして、定義宣言としたことです。二つには、表現型発話を宣言型発話の一種とみなし、表現宣言発話としました。)
主張宣言発話(assertive declaratives):「アウト」
行為宣言発話(performative declaratives):「開会します」「否認する」「承認する」
表現宣言発話(expressive declaratives):「おめでとうございます」
定義宣言発話(definitional declarataives):「これはリンゴです」
*主張宣言型発話をサールは、D↓↕(p) と表現したことがあります(サール『表現と意味』山田友幸訳、誠信書房、32)。例えば「アウト」という宣言によって、あるプレイがアウトであるという事実が設定されるので、この点では適合の方向は両方向↕になります。しかし、他方では、アウトは真であることも求められるので、語を世界に適合させるという方向↑も持ちます。このような主張宣言の発話が答えとなるとき、その答えには正/誤、ないし真/偽の区別があると言えます。「アウト」という宣言は、実際にアウトであったならば、アンパイアの宣言だとしても、誤りだといえます。言葉を世界に適合させなければならない場合、言葉が世界に適合すれば、その言葉は正しく、適合しなければ誤りです。
このような主張宣言発話が、問いへの答えとして成立するとするとき、正しい答えには複数の可能性があるのでしょうか。野球の審判がおこなう「アウト」「セーフ」などの宣言は、決定疑問への答えとして発するものなので、正しい答えは一つであり、複数の可能性はありません。しかし、裁判の判決の場合、「有罪」「無罪」の部分に関しては、複数の正しい判決の可能性はないのですが、事実認定の部分については、複数の正しい事実認定の宣言があり得るでしょう。その中から一つの事実認定を選択して宣言するのは、説得力のある判決を行うという判決のより上位の目的の実現にとって有効であることに依拠するのだとおもわれます。(判決文の中の、量刑や賠償金などの決定の部分もまた、おそらくは、合理的な根拠があり、主張宣言発話として真理値を持つのだろうとおもわれます。)
「アウトかセーフか」という宣言的問いに答えるために、「アウトかセーフか」という事実を問う理論的問いをたてるとき、この理論的問いの上位の問いは、主張宣言的問いです。
*行為宣言型発話は、D↑↕(p)と表現できるのではないでしょうか。なぜなら「開会します」という宣言によって開会がなされるので適合の方向は両方向になるのですが、他方で、会議は開始されたので、会議を具体的に進めるということが続かなければならないので、世界を言葉に適合させる必要があるからです。行為宣言型発話が答えとなるとき、それには正誤があります。「開会します」と宣言した後、会議を進める行為をしなければ、その宣言は誤りということになりそうです。この点で、実践的問いの正しい答えが実行可能性を持つのと同様に、行為宣言的問いの正しい答えは、実行可能性をもちます。
「会議を開こうか」という問いに答えるために、「今から会議を開いて進行できるだろうか」という理論的問いを問うことがあるでしょう。この理論的問いの上位の問いは、行為宣言的問いです。
*表現宣言型発話にD↕φ(p)もまた、正誤の区別を持つようにおもいます。なぜなら、例えば、「おめでとうございます」という発話は、<相手が学校に入学した>という事実を前提としているので、もし入学していなければ、お祝いの発話は、無効になるからです。前提している事実が成り立っているのならば、表現宣言型発話は正しいといえるでしょう。
「おめでとうと言おうか」と自問するとき、確認のために「本当に入学したのだろうか」という理論的問いを問うことがあるでしょう。この理論的問いの上位の問いは、表現宣言的問いです。
*定義宣言型発話D↕(p)
定義宣言型発話の答えにも、正誤の区別はあるのでしょうか。例えば、子供の名前をつける命名宣言の場合、どのような名前を付けることもできますから、命名に正誤の区別はありません。もし子供がいなければ、命名は失敗ですが、命名が誤りになるのではないだろうと思います。したがって、正しい答え(宣言)をするために、理論的問いを問うことはありません。
ただし、定義宣言型発話の答えにも、適/不適の区別はあります。つまり、宣言のより上位の目的を実現するためにどのような宣言内容が有効であり、どのような宣言内容が無効であるかの区別はあります。例えば、名前を定義することは、その人を他の人から区別して指示するためであるので、そのために有効であるか無効であるかの区別はあります。子どもに兄弟と同じ名前を付けることは不適切です。なぜなら兄弟と同じ名前では兄弟との区別が出来ないからです(ただし、誤りとは言いにくいように思われます)。宣言的問いに適切に答えるためには、理論的な問い(おそらく技術的問い)をすることになります。ある種の理論的問いのより上位の問いは、宣言的問いです。
例えば、
「この子にどういう名前を付けますか」(宣言的問い)
この定義宣言的問いに適切に答えるために、つぎのような理論的問いを問うことがあるかもしれません。
「この子にソクラテスと命名しても不都合はないだろうか」(理論的問い)
「この子の兄弟や親類に「ソクラテス」という名の人はいないだろうか」(理論的問い)
「「ソクラテス」という名前は、名前としておかしくないだろうか。」(理論的問い)
ところで、ここでは確認を省略しますが、主張宣言的問い、行為宣言的問い、表現宣言的問いの場合にも、それらに適切に答えるために、理論的問いがとわれることもあるでしょう。
#まとめ、理論的問いに対する正しい答えは、(もし理論的問いが決定疑問であれば、一つですが)、補足疑問であれば、複数可能な場合があります。その複数の正し答えの中から一つを選択しなければ、現実の返答はは出来ないのです。その選択は、理論的な問いを問うより上位の目的を実現する上で有効なものを選択することとして行われています。言い換えると、理論的な問いのより上位の問いに答えるのに役立つものを選択することとして行われています。上位の問いが、別の理論的な問いである場合、実践的問いである場合、宣言的問いである場合があり、それぞれについて詳しく見てきました。つぎのような二重問答関係があるとします。
Q2→Q1→A1→A2 (Q2を解くためにQ1を立て、Q1の答A1からQ2の答えA2を得る)。
Q1が理論的答えであるとき、<Q1の答A1が適切であるとは、A1がQ2に答えるのに役立つということである>。Q2に答えるのに役立つことが、A1の適切性を規定しています。
以上の答えの「適切性」の議論は、発話の意味を相関質問への答えとしてとらえるということが、問答のペアを意味の基礎的単位と見做す立場だと思われること防ぐうえで重要です。発話の適切性は、相関質問との関係ではなく、より上位の問いとの関係に規定されているので、ある問答が成り立つためには、より上位の問いとの関係が必要であることを示しているからです。
(ここから、実践的問いのより上位の問い、宣言的問いのより上位の問い、についてそれぞれ考察を続けて、理論的問いの答えの適切性に限らず、他のタイプの問いの答えの適切性についても、確認したほうがよいのですが、次回は、すこし別のテーマで議論したいと思います。10月下旬にある研究会で発表するので、それの準備を進めたいからです。「問いの答えが正しいとはどういうことか」「問答関係による推論規則の正当化」「実質推論はなぜ非単調性なのか」などに関連した話になると思います。)