103 「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への答え(The answer to “What does it mean for an answer to a question to be true?”) (20240203)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(今回の発言は、一時休憩の踊り場です。)

 第97回から考えてきたことは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」ということでした。そして、前回最後にのべたように、<命名や定義の宣言が成立するには、他者との問答が必要であり>、また<命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、その記憶の正しさを保証するには、他者との問答が必要です>。そこで、「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思ったのです。しかし、この問いに答えようとすると、当初の「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」に答える必要があるように思われます。このように振り返ると、最初の問題設定からあまり前進していません。

 今回は、当初の問題「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への現時点での答えをまとめておきたいと思います。以下は、2024年8月にローマで開催予定の世界哲学会にエントリーするためにまとめた文章「命名と定義による真理の正当化」の一部です。

「記述の真理性は、使用する語の意味(使用法)に依拠し、語の意味(使用法)の学習は、語の意味(使用法)の定義に依拠する。その定義は宣言発話であり、それ自体は真理値を持たないが、定義の後、同じ文の発話が反復され時、それは記述となり、その真理性は定義に依拠する。では、真理値を持たない宣言発話の文を反復して発話することが、どうして真なる記述になるのだろうか。

 世界の記述が真となるのは、その命題内容が、世界の在り方と一致するからだと考えられている。命題内容が事実と一致するためには、命題内容と事実の区別が前提となる。この区別は、命名や定義のための問答において暗黙的に行われる。したがって、例えば、語「象」を定義することは、同時に対象<象>を定義することであり、定義の後で、定義の文を反復するとき、それはその対象についての記述となり、真理値を持つことになる。」

The truth or falsity of a statement depends on the meaning (usage) of the words used in it, and knowing the usage of a word depends on the definition of the usage of the word. A definition is a kind of declaration, so it has no truth value in itself, but repeating the same sentence after a definition becomes a description, and a truth value is derived based on the definition. So how can repeating a statement of a declaration, which has no truth value, become a true statement? A description of the world is said to be true because its propositional content ”corresponds” to the way the world is. In order for the content of a proposition to ”correspond” to facts, it is necessary to distinguish between the content of a proposition and facts. Defining the word ”elephant” is inseparably defining the object <elephant>, but words and objects are implicitly distinguished in questions and answers about naming and definitions. Therefore, if you repeat the definitional statement after the definition, it becomes an accurate description of that object.)

発表しようとしている内容は、このカテゴリーで97回から考えていることです。しばらくこのエントリーの準備に時間を取られ、ブログの更新が遅れてしまいましたが、そこで気づいたのは、命名や定義を行うときの問答そのものの分析の必要性です。

 命名と定義から記述の真理性を正当化する、という主張は、記述の真理性を、要素命題の真理性や語の意味に還元する立場だと思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら語の命名や定義は、問答によって可能になるからです。問答によって、語と対象の区別が可能になり、問答よって、語から文の合成が可能になり、問答によって命題と事実の区別が可能になり、問答によって語の命名や定義が可能になるからです。ところで、この問答が私的言語としては成立し得ないとすれば、問答が成立するためには他者が必要だとして、他者の登場によって、規則遵守問題はどのように解決されるのでしょうか。

 この問題を次に考えようと思います。

100 指示するとはどういうことか(What does it mean to refer?) (20240102)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。)

問いに対する答えが真であるとはどういうことか、を考えており、最も基礎的な真理としては、語「リンゴ」を学習したときの「これはリンゴである」を真なる命題として学習するので、とりあえず個人にとってはこれは問いに対する答えが真である、もっともの基礎的な例になるだろうと考えました。ただし、語の学習は教える人の知識に依存しており、それを遡れば、最初に「リンゴ」という語を作ったときに遡ると考えました。命名や定義によって語を語を導入するとき、そこ使用される「これはリンゴである」のような命名や定義の宣言発話は、真理値を持ちませんが、それに依拠して「これはリンゴである」とか「これはリンゴではない」とかいう発話は真理値を持ち、問いに対する答えが真であるのは、命名や定義に依拠することによって成立することになります。そして、前回述べたように、命名や定義をするためには、対象ないし対象の集合を指示しなければなりません。そこで、指示するとはどういうことか、を考えたいとおもいます。

#指示は、命名や定義を前提する。

 まず、命名と定義の時に限らず指示一般について考えてみます。指示するとは、対象を指示することです。指示対象には、具体的な個物、抽象的普遍、具体的性質、普遍的性質、具体的関係、普遍的関係、具体的出来事、普遍的出来事、言語的トークン、言語的タイプなどがあり、これらは、名詞ないし名詞句で指示できます。

 名詞ないし名詞句を用いて対象を指示するのだとすれば、指示に先立って、名詞ないし名詞句の学習が必要です。学習が可能であるためには、教える人が学習を終えていることが必要です。そしてこれを遡れば、名詞ないし名詞句の命名ないし定義に行き着きます。つまり、一般的には、指示は、名詞ないし名詞句の命名や定義を前提とします。

#指示と命名・定義は循環するのか?

 このように考えるとき、指示の説明と、命名や定義の説明は、循環してしまうのでしょうか。前回見たように、命名や定義は、逆に指示を前提とします。すると、説明が循環しそうです。しかし、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用している場合には、これらの他の名詞や名詞句の命名や定義を説明するときに、当初の名詞や名詞句を使用しないようにするならば、循環は避けられると思います。このようにして循環を避けながら遡っていくならば、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用せずに行われるケースに行き着くでしょう。この場合の指示は、指さし行為+指示詞の発話に遡るかもしれませんが、これはさらに、指さし行為と相手の注意を喚起するための発声(「アー」や「オー」など)を結合したものへと遡ることができるでしょう。(この発声は、次の2や3に発展します。)

#命名や定義の発生順序

命名や定義の発生の順序は、おそらく次のようになるだろうと推測します。

1,自分が注目している対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為と発声をすること

2,ある特定の対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為とある特定の発声をすること(日本語の場合、「これ」「あれ」「それ」など、これは様々な対象の指示に使用できる)。

3,ある対象と特定の発声を結合すること(「ミルク」「おもちゃ」「ママ」など)。

現在のところ、このような段階を経て固有名の命名や一般名の定義が行われるようになるだろうと推測しています。

#語が作られる理由

このようにして生じると推測する語の発生ですが、言語の習熟が進んだ後では、自問自答によって語が作られる場合もあるでしょうが、原初的には、他者とのコミュニケーションのために語が作られるのだと思います。他者とのコミュニケーションのために語を作る理由としては、例えば次のようなことが考えられます。

(1)語があれば、対象が不在であってもその対象への共同注意が可能になります。

例えば、「リンゴをとってほしい」ということを伝えようとするとき、「リンゴ」といって手を伸ばせば、リンゴがそこになくても、リンゴをとってほしいということを伝えることができます。「何が欲しいのか」という問いに答えようとするとき、リンゴがそこにないときには、語「リンゴ」がないと伝えられません。

(2)そもそも指差し行為ができない対象への共同注意を求めるには、その対象を語句で指示することが役に立ちます。例えば、「おしっこ」「痛い」など。

これらのケースでは、語を作るのは、共同注意を生じさせるためであり、共同注意が必要になるのは、協働作業のためであろうと推測できます。

#命名と定義は固定指示です。

クリプキによれば、「この子をソクラテスと命名する」という命名宣言が承認されたなら、この「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示します。「水はH2Oである」という定義宣言が承認されたなら、「水」はすべての可能世界で同一種を指示します。

 「水」の定義「水はH2Oである」は、H2Oの集合と名前「水」を結合しています。この定義によって、「水はH2Oである」はアポステリオリで必然的に真です、言い換えると認識的に偶然的であり、形而上学的に必然的です。この定義によって、「水」は固定指示となります。ゆえに、定義の前でもこれは真となります。

#固有名の命名の規約に依拠する真なる答え

「この子はソクラテスである」によって、固有名を作ったとしましょう。固有名は固定指示です、つまりあらゆる可能世界で、「ソクラテス」は同一の人物を指示する。クリプキは、これを規約だという。この規約は次のようなものになるだろう。

<「この子」という名詞句は、この世界ではある一人の人物を指示する。そして、その人物が他の可能世界にいるかどうかわからないが、もしいたとすると、その人物を指示する。>と規約する。

この命名の規約に基づいて、ある人物を指して「この人は誰ですか」という問いに、「この人はソクラテスである」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「この人」の指示対象が誰であるか」の答え

 (2)「ソクラテス」の命名宣言文「この子はソクラテスである」

 (3)「この人」の指示対象と命名宣言の「この子」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「この人は誰ですか」という問いに対する答え「この人はソクラテスである」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

#自然種名の定義の規約に依拠する真なる答え

自然種名を作ることは、命名とも呼べるが、定義とも呼べる。命名という場合には、「これは、リンゴである」と命名する前に、すでに対象<リンゴ>は同定されている。定義という場合には、対象<リンゴ>が事前に同定されている場合と、語「リンゴ」の定義によって、対象<リンゴ>の同定(定義)が可能になる場合がある。どちらの定義の場合にも、定義による対象の表示は、固定指示であるが、より原初的なのは、定義のこの後者の場合であろう。そして、この固定性もまた規約である。

この定義の規約に基づいて、ある対象を指して「これは何ですか」という問いに、「これはリンゴです」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「これ」の指示対象がどれであるか」の答え

 (2)「リンゴ」の定義宣言文「これはリンゴである」

 (3)「これは何ですか」の「これ」の指示対象と定義宣言文の「これ」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「これは何ですか」という問いに対する答え「これは、リンゴです」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

理論的な問いに対する答えである(単純な知覚報告を含む)事実の記述は、推論によって成立しますが、その前提ととして、命名や定義だけでなく、知覚、記憶、概念関係もまた前提として必要としています。つぎにこれについて考えたいのですが、その前に、クワインの指摘した「指示の不可測性」と固定指示の関係についての考えたいと思います。

99 定義は宣言型発話の一種である(A definition is a type of declarative utterance.) (202312228)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(理論的問いに対する答えが真であること、とりあえず知覚報告「これは赤い」が真であること、を考察している途中です。それを「赤い」の学習に遡り、さらに「赤い」の定義に遡り考察している途中です。)

#定義発話の適合の方向

 語「水」の定義「水はH2Oです」の発話は、真理値を持つ主張型ではなく、宣言型発話になります。サールによれば、発話は「適合の方向(direction of fit)」を持ち、主張型は言葉を世界に適合させ、命令や約束は、世界を言葉に適合させようとします。宣言型発話は、この両方向の適合方向を持ちます。定義もまた両方向をもちます。したがって、定義は宣言型発話の一種だと言えます。

 ただし宣言型発話には、定義以外のものもあるので、宣言型発話の区別を論じます。

#宣言型発話の区別

宣言型発話は、次のようなものがあります。(これ以外にも、あるかもしれませんし、別のタイプの区分が可能であるかもしれません。)

行為宣言型:「開会します」「賞を授与する」

「…することを誓います」は、約束でしょうか、宣言でしょうか。(行為宣言型と行為拘束型発話(約束がこれに含まれる)との関係については別途考える必要がありそうです。)

主張宣言型:「アウト」「有罪とする」など審判、判決の発話

これは宣言であると当時に、事実の記述でもあります。野球の審判が「アウト」という場合のように、宣言であると同時に真理値も持ちます。「アウト」は事実についての記述に基づく判定です。

審判の間違いは、事実から判定を引き出すことではなく、事実についての記述の部分で間違うのです。事実から、ゲームの規則に基づいて、「アウト」という判定を引き出すのだとすると。という主張宣言型発話は、「アウト」という語の意味を前提としています。

命名宣言型:名づけの発話

個別的対象ないし対象のある集合が、ある語をその名前とすることを宣言することです。例えば、植物学者が、新しい種を発見して、それに命名するという場合です。

・定義宣言型:語や対象の定義を与える宣言。

「定義」とは、たとえば「正三角形」の定義は、「正三角形」という語の意味を確定すること、あるいは、正三角形である対象の集合を確定すること、です

*定義宣言型と主張宣言型との差異

主張宣言型では、使用する語「アウト」の意味はすでに成立しており、その適用について宣言するものです。それに対して、語の定義は、語の意味を前提とせず、定義によって語の意味を設定する。「定義」とは、対象の集合と名前を結合することです。

*定義宣言型と命名宣言型との差異

植物学者が発見した新種に命名するとき、命名の前に新種の同定はできています。それに対して色の名前の定義の場合、色名の定義の前に色の同定はできていません。

*宣言の相関質問

記述は理論的問いへの答であり、意志決定は実践的問いへの答えです。

行為宣言の相関質問は実践的問いです。

主張宣言の相関質問は理論的問いです。

命名宣言の相関質問は実践的問いです。

定義は?(これについては、次回に指示について考えた後で、考えたいと思います。

 何を前提するか真理値を持つか、相関質問の例
行為宣言行為タイプを前提する 「私は首ですか」 「誰を首にしますか」「執行猶予3年とする」
主張宣言事実と記述タイプを前提する宣言と独立に、その命題は真理値を持つ「アウトか、セーフか」「有罪か無罪か」
命名宣言対象を前提する宣言後、真理値を持つ「どう名付けますか」「名前を何にしますか」
定義宣言宣言後、真理値を持つ

#命名や定義と指示

命名や定義をするためには、対象ないし対象の集合を指示する必要があります。命名の場合には、命名に先立って指示を行っています。定義の場合には、定義と同時に指示を行っています。指示するとは、対象を指示することであり、指示対象が存在することを伴っているように見えますが、指示するとはどういうことであり、それはどのようにして可能なのでしょうか。これを次回に考えることとします。