166 仕切り直し:哲学における問いの変換(Starting afresh: Transformation of Questions in Philosophy)(20251222)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(163、164、165回には、空間と時間と問答関係がもつ「認識論的 K 構造」について考察しようとしました。この主題が非常に複雑で、K 構造を明示して分析することに四苦八苦しています。
そこで少し目先を変えて考えてみたいと思います。いずれ K 構造の話に戻るつもりです。)

#ローティの診断

最近読んだ本の中で、ローティが次のように言っていました。

「アメリカの政治的急進派の多くの人々は、啓蒙の合理主義を特徴づけている基礎づけ主義と啓蒙主義が捨て去られるならば、ハーバーマスが『近代の未完のプロジェクト』と呼ぶものも、社会民主主義政策のさまざまな目標も、もはや真面目に取り上げられなくなると思っている。対照的に、私の見解では、ブルジョア・リベラリズムは、哲学的基礎づけなど必要としていない――政治的立場は、その政治的立場が訴えている原理によるよりも、むしろその政治的立場がもたらす結果によって正当化されることができる――のである。」(リチャード・ローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』小澤照彦訳、晃洋書房、v)

ブルジョア・リベラリズムは、哲学的基礎づけなど必要としていない。むしろ、その政治的立場がもたらす結果によって正当化される。これによれば、例えば世界人権宣言は、哲学的基礎づけを必要とせず、その政治的立場がもたらす結果によって正当化されるということです。人々の人権に対する態度は、まったくこのとおりだと思います。


ここで重要なことは二つあります。

一つは、世界人権宣言の正しさを哲学的に基礎づけることは不可能であるということです。なぜなら、このような法的・倫理的主張に限らず、理論的主張を含めて、なんらかの主張を哲学的に基礎づけることは不可能だからです。

もう一つの重要なことは、基礎づけが不可能であるだけでなく、そもそも基礎づけを必要としていないということです。

このカテゴリー「問答の観点からの認識」では、主張や認識の正当化をつねに問題にしてきました。一方では、基礎づけが不可能であることを受け入れながらも、他方で、(基礎づけられないまでも)何らかの正当化が必要だと考えて、認識の問題を検討してきたのです。

私たちは、主張の正当化を次の二種類に区別できます。

  根拠による正当化(上流推論による正当化)

  帰結による正当化(下流推論による正当化)

基礎づけができないということは、根拠による正当化ができないということです。そして、ローティが「政治的立場は、その政治的立場がもたらす結果によって正当化される」と述べるときの正当化は、帰結による正当化に対応します。

「なぜ」の問いは、出来事の原因や行為の理由、主張の根拠を問うものであり、根拠による正当化を求める問いです。それに対して、帰結による正当化を求める問いは、別のタイプの問いになるはずです。 それはどのようなタイプの問いになるのか、これを次に考えたいと思います。