[カテゴリー:自由意志と問答]
(前々回の宿題「自由意志が成り立つかどうかは、最終的に社会的サンクションに依存するのか?」を論じる前に、自由概念の再検討をしておきたいとおもいます。)
フィヒテの自由論を検討する中で、「自由」についてのインフレ主義とデフレ主義の区別を思いつきました(フィヒテの主張については、前回のリンクをはった学会発表の原稿で説明しました)。
ここではフィヒテ解釈を離れて、この区別の可能性を追求したいと思います。
自由を、(とりあえずは人間の)ある種の能力やある種の活動性の性質として捉えることを「自由のインフレ主義」、あるいは「インフレ的自由概念」と呼ぶことにします。これに対して、自由を、 <意識的に考えたり行為したりすること>として捉えることを「自由のデフレ主義」あるいは「デフレ的自由概念」と呼ぶことにします。
「意識的に」という限定によって、無条件反射や条件反射のように、それを意識していても意識していなくとも成立する心の働きを除外するためです。人間が意識的に考えることは、すべて問答によって成立しているだろうと思います。また自由な行為は、意図的な行為だけであり、かつ意図的な行為はすべて自由な行為だと考えます。そしてこの意図は、問答によって成立すると思います(なぜなら、意図は意図表明の発話として成立し、意図表明の発話は問いに対する答えとして意味を持ちうるからです)ので、自由な行為もまた問答に基づいていることになります。したがって、自由とは<意識的に考えたり行為したりすること>であり、言い換えると<問答すること>です。
このようなデフレ的自由概念を提案する理由の一つは、インフレ的な自由概念を説得的なものとして主張できないということです。
#インフレ的自由概念の欠点:出来事因果の不十分性と行為者因果の曖昧さ
自由な行為や自由な心の働きを出来事因果で説明しようとすると困難です。もし自由な行為(出来事1)が別の出来事(出来事2)を原因として生じ結果であるとすると、「出来事2が生じたから、出来事1が生じた」と語れるはずです。そしてこれを認める者は、「出来事2に似た出来事が生じたならば、出来事1に似た出来事が生じる」を認めるでしょう。出来事2と出来事1の因果関係が成立するのは、何らかの一般的な因果法則があるからだ、ということになります。しかし、この場合には、この出来事1は、自由な行為ではなく必然的な行為です。
そこで登場するのが、行為者因果です。行為者因果は、出来事間の因果関係ではなく、行為者と出来事の間の因果関係です。たとえば、主体が原因となって意志決定(出来事)が結果するとしましょう。このとき、似たような主体があれば、似たような意志決定をする、ということであれば、そこに一般的な因果法則があります。その場合には、それは必然的な意志決定になります。
行為者因果によって自由な心の働きや行為を説明するのであれば、その場合の原因と結果は因果法則以外のものによって決定していなければなりません。それは何でしょうか。それは行為者の力のようなものでしょうか。しかし、力がどのようなものであるかは、力が実現する因果関係によってしか理解できず、その因果関係は法則としてしか理解できないように思われます。そうだとすると、力の結果は、必然的なものであり自由なものではないことになります。このように行為者因果の概念は曖昧ですから、これによってある種の能力やある種の作用を自由なものとして説明することはできません。
#デフレ的自由概念の必要性
このようにインフレ的自由概念は整合的に考えることができないとしても、「自由」という概念は、不要ではありません。なぜなら「自由」概念が不要であるとしたら、すべての出来事が、物理的な因果法則と量子論的な偶然性によって決定していることになり、それでは心の自立的な働きを説明できないからです。私には、心の働きは、物理的な決定を超えた自立性を持っているように思われます。そして心の「自立性」を「自由」と呼びたいと思います。インフレ的な自由概念もこの心の「自立性」を説明しようとするものでしたが、それは失敗していると思われます。そこで、自由を別の仕方で説明すること、つまりデフレ的な自由概念を提案したいとおもいます。
このデフレ的自由概念の有効性を示すには、自然的決定性からの問答の「自立性」ないし「自由」を証明しなければなりません。これを示すのは、問答に関する別のカテゴリーの課題になると思います。それ進展したのちに、またこのカテゴリーに戻ってきたいと思います。