125 「真理の定義依拠説」を振り返る (A look back at the “definition-based theory of truth”) (20240715)

[カテゴリー:問答の観点からの認識] 

 (あれこれと考えているうちに、遅くなりすみません。)

 論理学や数学の命題が問いに対する正しい答えであることは、それらの公理系で証明できるということです。そして、どのような公理や推論規則を設定するかは、ベルナップが主張したように、まず公理を推論規則に変形して、全ての推論規則が保存拡大性を充たすように設定するということが必要条件になります。ただしそれに加えて(111回に述べたように)、問答関係に暗黙的に内在する論理的関係を充たすように設定するという条件を加える必要があると考えています。

 ところで、公理や推論規則に基づくだけでは答えることができない問いの場合には、科学的な理論命題を含めて、最終的には日常的な経験的な語彙の意味(使用法)に基づくことになると思われます。日常的な問答の答の正しさ(真理性)は、経験的な語彙の学習に基づいており、その学習の正しさを遡れば、それは、経験的な語彙の定義に基づきます。これを真理の「定義依拠説」と名付けました。

 しかしここでの問題は、日常的な語彙の定義をどのように理解するかです。

語の意味(使用法)は、語を用いた推論によって与えられ規定されます。<推論は、それに含まれる語の意味によって成立し、構成される>と考えるとき、それは「形式推論」であり、逆に<推論は、それに含まれる語の意味を規定するものであり、それらの語に意味を与えるものである>と考えるとき、それは「実質推論」であると呼びたいとおもいます。これはブランダムの「実質推論」の理解に依拠しています。形式推論は単調推論ですが、実質推論は非単調推論になります。

 日常的な語彙の意味の特徴は、非単調な実質推論によって意味が与えられるということになります。(これを非単調な実質推論によって意味を与えることを、「定義」と呼ぶことには批判があるかもしれません。しかし、「これはリンゴです」や「私には二本の手があります」などの真理性については、定義依拠説と呼んでもよいように思われます。)

さて、現在以下のような問題を考察中なのですが、ここから次にどう進むか思案中です。

  タルスキーに始まる、意味論的語彙をどう扱うべきか、と言う問題

  問いに対する答えの正しさと適切性の区別の問題

  実質推論の非単調性と推論規則の拡大保存性の関係

いずれにしても、少し仕切り直したいと思います。