33 探索が意識されるのはどんなときか? (20210201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

バレットの情動論の説明に戻ると言いましたが、その前に前回のupの補足をさせてください。

前回の結論として、予測を意識するには、探索が意識的になっている必要があると述べました。ところで、「27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)」では、問いないし探索が意識される場合を、次のように説明していました。

「問いを意識するのはどのような場合だろうか。

①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。」

この「問い」を(広義の)「探索」に拡張すると、次のように言い換えられるでしょう。

①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②探索を意識するもう一つの場合は、探索しているものを発見できないので、その発見のために、別の探索をするときときである。このときこの「別の探索」を私たちは意識する。

ここでは、この①と②を再検討したいと思います。

まず①について気になるのは、<探索がうまくいかなくてそれを意識することは、行為がうまくいかなくてそれを意識するということの、特殊ケースである>という点です。むしろ、<行為の方こそが、探索の特殊ケースである>と思われるからです。

 探索するには、認知や、推論や、人に尋ねることなどの様々な方法があり、行為もまたその方法のひとつなのではないでしょうか。行為には目的がある。行為は、その目的をどうやって実現するかを探索することなのではないでしょうか。例えば、卵焼きをつくる時、どうやってうまく卵を焼くかを探索しているのではないでしょうか。

次に②について気になるのは、探索Aしているものを発見できないので、その発見のために探索Bをする、という場合、探索Aが意識的な場合と無意識的な場合を分けて考えた方がよいのではないだろうか、ということです。つまり、<もし探索Aが意識的なものであれば、探索Bも意識的なものになるだろう。ただし、もし探索Aが無意識的なものであれば、探索Bも無意識的なものになるのではないだろうか?>、ということです。

この点を検討するためには、(先ほど少し訂正した)①についても、もう一度検討する必要がありそうです。仮に「①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである」を認めるとしても、しかし、逆に「無意識に探索しているものを発見できないときには、探索を意識することになる」と言えるかどうかは疑問です。つまりこれが常に成り立つとは言えないように思えるのである。

 私たちのこれまでの考察が正しいとすれば、人間を含めた生物の意識の発生のメカニズムを明らかにすることは、この①のメカニズムを明らかにすることにかかっているはずです。どう考えればよいが、考えあぐねています。

 そこでこの問題を気にしつつ、とりあえずバレットの情動の説明に戻ることにします。