第二の問題、再検討

讃岐富士(飯野山)の2007年4月1日の景色です。

第二の問題の再検討

■仕切りなおし
我々が第二の問題「私は何のために生きるのか」を問うのは、次の矛盾のためであると上にのべた。
  (a)「私はもっと生きたい」という意図・願望
  (b)「私は何のために生きるのかわからない」という現実認識

この二つが、本当に矛盾しているのかどうかが曖昧なので、今回検討することを予告した。
 しかし、これについて考えているうちに、もっと重要な間違いに気づいた。

 (b)「私は何のために生きるのかわからない」という自己認識は、「私は「何のためにいきるのか」という問いに答えられない」ということであり、私が「私は何のために生きるのか」と問うて、答えられなかった、という経験にもとづく認識であるだろう。
 もし、そうだとすると、「私は何のために生きるのかわからない」という現実認識が成立する前に、すでに「私は何のために生きるのか」という問いが発せられていることになる。つまり、この問いは、(a)と(b)の矛盾(仮にこの二つが矛盾だとしても)によって発生するのではない。

■振り出しに戻って
 では、「私は何のために生きるのか」という問いは、どのようにして発生するのだろうか。このような問いを問うときに前提になっていることは、「私は生きている」という認識である。なぜなら、この問いは、「私が生きている」ということの理由を問うものだからである。 ところで、「私は生きている」と「私はもっと生きたい」だけでは、そこから「私は何のために生きるのか」という問いは生まれない。では、何が必要だろうか。

 一般的に、人が行為の理由を問うのは、どのようなときだろうか。
 たとえば、ジョギングをしていて苦しいとき、「私は何のためにジョギングしているだろうか」と自問することがあるかもしれない。私が次のように考えているとしよう。
   私はジョギングしている。
   ジョギングが苦しいので、私はジョギングをやめたい。
   しかし、私はジョギングをやめたくない。
このとき、私は次の問いを立てるだろう。
   「なぜ、私はジョギングをやめたくないのか」あるいは
   「私は何のためにジョギングをしているのか」

 これをさらに少し変えて、私が次のように考えているとしよう。
    私は生きている。
    生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい。
    しかし、私は生きるのをやめたくない。
このとき、私は次の問いを立てるだろう。
    「なぜ、私は生きるのをやめたくないのか」あるいは
    「私は何のために生きているのか」

ここでは、次の二つの意図(欲求)の矛盾が成立している。
    「生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい」という意図・欲求
    「私は生きるのをやめたくない」という意図・欲求
では、この二つの意図の矛盾の解決のために、次の問いを立てるのだろうか。
    「私は何のために生きているのか」
私は、これまで、現実と意図の矛盾から、問いが発生すると考えてきたのだが、
このケースについては、どのように考えたらよいのだろうか。

(今日は、もう頭が動かないので、次回にこれを検討します。)