urbeさん、コメントありがとうございました。
私もまた積極的無神論者です。神の存在証明が不可能であることをカントが証明したのちの、哲学からの宗教批判は、認識論的なものではなくて、むしろ道徳的な批判になるのだとおもいます。フォイエルバッハも、マルクスも、ニーチェも、キリスト教を信じることは、不道徳であると批判していました。その後に、ラッセルやドーキンスが続くのかもしれません。もちろん、その理由は、哲学者によって様々です。
さて、コメントの本論についてコメントする前に、復習しておきます。
まず「多文化主義の信念形式」を次のBのように考えてみました。
B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」
問題は、「Bが矛盾しているかどうか」でした。
まず、Bよりも、もっと矛盾していそうなDを考えてみました。
D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」
もしこのDが矛盾していないならば、Bは矛盾していないということになるでしょう。
なぜなら、Bの場合には、「私が、pを信じているが、確信を持っていない」のに対して、Dの場合には、「pです」と言い切っているので、「私は確信を持ってpを信じている」と解釈することにしました。
なぜ、Bの場合には、「私が、pを信じているが、確信を持っていない」といえるのか、といえるのでしょうか。このBの命題だけからでは、そのような解釈はできません。しかし、この命題を我々は「多文化主義の信念形式」だと考えました。「私」は多文化主義者なのです。もし人がpを確信を持って信じているのならば、その人はpに関して、多文化主義の立場をとることはありません。pに関して多文化主義であるということは、pに関して異なる見解を持つ文化が正しい可能性を認めるということです。従って、彼がpを信じているとしても、彼は確信を持っていないはずだからです。
このDを次のD1のように書き換えてみました。この書き換えによって、D1はDより矛盾の度合いが強くなっても、弱くなる事はないだろうと考えました(あるいは、書き換えても、ここでの議論には影響しないだろうと考えました)。
D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」
次にこのD1についての次の二つの解釈を区別することにしました。
D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
D1b「pです。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」
私の結論は、「D1aには矛盾はないが、D1bは矛盾している」ということでした。
そして、「D1aが矛盾していないのならば、Bも矛盾していない」と結論付けたのでした。
こうして、復習してみて気づいたのですが、この最後の結論付けの部分がわかりにくかったかもしれませんので、次のように説明を補いたいと思います。
D1をD1aとD1bに分けたのと同様に、Bについても次の二つの理解を区別できます。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」
D1aが矛盾していないので、Baは矛盾していません。
D1bは矛盾しています。しかし、Bbは矛盾していません。
なぜなら、Bはpを信じているけれど、確信を持ってはいないからです。
さて、urbeさんの最後のコメント <僕の予想はつぎのようなものです.もしBをD1aのように解釈したとします.すると,(ひょっとすると)上のような何らかの道徳的理由から,D1aから「人格を尊重するゆえ,そのひとのもつ信念pを放棄させなければならない」といった主張が導かれるかもしれません.すると,結局,D2の反対が導かれました.> について。
D1aは矛盾していないけれど、D1bは矛盾している、と私は考えますので、D1bからD1bの反対が導出されることは、ありうることだと思います。
<それは「pと信じる人を私は論駁します」というようなものです.この主張は,もはや多文化主義の尊重といえるでしょうか?>
そのとおりです。つまりDは、「pを確信を持って信じている」立場ですので、pに関して、多文化主義をとっていないのだと思います。
最初のコメント<D1bの矛盾は、「意味論的」ないし「論理的」な矛盾ではなくて>、<何らかの規範的命題を侵犯>することではないか、について
これの後半<何らかの規範的命題を侵犯>するについては、その通りだろうとおもいます。
<pが真であると確信しているのに、他者の¬pという主張を尊重する。>
これは、他者の間違いを訂正しないということで、嘘をつくのと同様に、道徳的な規範に反するように思われます。
しかし、コメントの前半<D1bの矛盾は、「意味論的」ないし「論理的」な矛盾ではない>については、私には迷いがあります。
D1bの態度は、彼自身の論理的な首尾一貫性にも反するように思われるのです。そして、この首尾一貫性は、有意味に語ることや、論理的に語ることを、可能にするような規則であるような気がします。ただし、この「首尾一貫性」が、<意味論的な規則や論理規則の一種である>といえるかどうかについては、迷いがあります。つまり、urbeさんのコメントが間違っているという確信も持てないでいます。
この首尾一貫性は、それらとは、別種のものかもしれません。しかし、それを破ると、我々が<まともな思考>ができなくなるような規則であるように思われます。
ここで、私が考えていることは、昨年後期の、自由に関する講義と関連しています。興味のある方は、
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2006WS/2006WS10%20Fichte.html
を参照してくだされば、幸甚です。
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論理的には仰る通りになりますが、ここで問題なのはpが事実判断か価値判断かです。
事実判断、例えば「このコップは青い」なら、記事の論理の展開は意味がありますが、価値判断、例えば「このコップの青が好き」なら、他人の判断にまで論理を展開するのは、意味がないと思うのです。なぜなら好きか嫌いかは好みの問題だからです。
urbeさんとの議論を知らずに口を挟むのは間違いを犯すことになりかねませんが、「多文化主義の信念形式」というところから判断すると多文化についてのご議論は思われますが、文化というのは大体価値判断の集合体だと思います。
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神の存在証明は出来ない。
もちろん、それが間違った前提から出発し、間違ったやり方で
、神の存在証明をしようとした場合の話です。
正しい前提にたって、正しくやれば、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全てが造られているこの世界の中において、神の存在証明は、無理なく、自然に出来ます。
まずは、ヒトが自ら勝手にでっち上げた神を、そんなものは
実在しないというマッチーポンプ的な神の存在証明の仕方を止めにすることです。
ヒトがでっち上げたのではない、天然自然の存在の創造主である神が実在します。
そして、この意味の創造主である神の存在を認めて受け入れても、人類社会はいささかもオカルト的にも神秘主義的にもなりません。
一般法則論者
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。
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