価値判断が矛盾を引き起こす

この秋の御嶽山です

凡人さん、重要なコメントありがとうございました。

「多文化主義の信念形式」は矛盾していない、というのが前回までの議論の結論だったのですが、この結論は、pが事実判断であるか価値判断であるかによって、影響を受けるのではないか、というのが、コメントの趣旨だと理解しました。

ご指摘のように、私も文化と言うのは大体価値判断の集合体だと思いますので、価値判断を念頭において、「多文化主義の信念形式」が矛盾していないかどうかを、もう一度考えてみたいと思います。

「多文化主義の信念形式」を前回二つの形に分けました。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します。」
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

次に、このBaよりも矛盾していそうな次のD1aを調べました。
D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
しかし、これは矛盾していないので、Baも矛盾していないと述べました。

この点から、再検討しましょう。
D1aのpが価値判断であるとして、これが矛盾していないかどうかを再検討しましょう。
たとえば、pが次の内容の価値判断であるとしましょう。
p「C教の神信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」
このとき、D1aは次のようになります。
D1a「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ。私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します」

このD1aは、自己矛盾しているように思われます。

では、このpをBaに代入したものはどうなるのでしょうか。
Ba「私は、「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」と信じます。しかし、私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します。」

この人はpの真理性に確信をもっているわけではありません。しかし、このBaも矛盾しているように思われます。
仮にC教の神を信じないI教の信者がいるとしたときに、このBaは次のようにになるでしょう。
「私は、「I教の信者は抹殺されるべきだ」と信じる。しかし、私はI教の信者の人格を尊重する。」
これは、矛盾しています。

では、我々はこれについて、どのように考えればよいのでしょうか。
多文化主義の信念形式はそれ自体で、自己矛盾しているのでしょうか。
それとも、pに価値判断が代入されと矛盾するのでしょうか。
それとも、pにある特殊な価値判断が代入されると矛盾するのでしょうか。

この点をもう少し考えて見ましょう。

感情の物語負荷性

      アルゴンキン

問題はこうでした。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

答えは、「はい、そのとおり」です。その理由を一般的な仕方で説明すると次の通りです。
「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」という問いに限らず、我々が何かを問うことは、意図的行為の一種です。そして、全ての意図的行為は、一定の感情をともなっており、感情抜きに意図的行為は成立しない、と思うのです。他方で、全ての感情は、物語負荷的であり、一定の物語を背景にして初めて成立します。そこで、上の問いもまた、物語を背景にして始めて成立するのです。(この一般的な証明については、拙論「感情の物語負荷性」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper22.htm をご覧下さい。)

しかし、このような説明では、<どんな問題もそれを問う人が何らかの物語を背景にしている>という一般的な説明になってしまって、この人生論の問題の特殊性が見えなくなってしまいます。

ではどうやって説明すればよいでしょうか。

始め、中間、終わり

夢のようなアルゴンキン

さて、次の問題を考えてみます。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

その前に(またしても「その前に」ですね)、「人生を物語として捉えるとはどういうことか」という質問があるかもしれません。

(「その前に」を繰り返しているうちに、最初の問題を忘れてしまうことがあります。「その前に」というのは、結局、最初の問題から逃げているのではないか、と疑われても仕方ありません。しかし、まあ、そんなことを考える、その前に、話を進めましょう。)

「人生を物語として捉えるとはどういうことか?」
これに答えるのは、簡単です。私は、物語をアーサー・ダントーが説明している意味で理解しているからです。もちろん、物語についてのほかの定義もありうるでしょうか。ここではダントーの定義を採用したいとおもいます。物語とは、物語構造を持つもののことであり、物語り構造とは、始めと、中間と、終わりがあるということです。
 Xはt1でH1である。
  Xはt2でH2である。
  Xはt3でH3である。
これが物語の基本構造です(今、彼の本を手元においていないので、表現の違いはあるかもしれませんが、彼が考えいてるいる、と私が考えているのは、このようなことです。)
したがって、「人生を物語として捉えるとは、人生を、始めと、中間と、終わりをもつものとして捉えることです」というのが、答えです。
(これでは、不十分だとか、解からない、という方がおられましたら、ご質問をお願いします。)

さて、これで最初の問題に戻りましょう。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」