03認識論的個人主義とは

共有知の存在証明に取り掛かりたいとおもいます。

唯物論であれ、二元論であれ、観念論であれ、すべての意識ないし思考は、個人の意識ないし思考であるとしましょう。この立場を「認識論的個人主義」と呼ぶことにします。なぜなら、このときには、全ての認識は、ある個人が行っている認識であるということになるからです。
 このような認識論的個人主義では、私が見ている対象や私の思考は、全て私個人のものです。もし私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ているとしましょう。このこと、つまり「私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ている」ということは、私の認識です。私は、Bさんも、同じように考えていると思っていますが、しかし「Bさんも同じように考えている」ということもまた、私の認識です。つまり、認識論的個人主義が正しいとすると、個人が複数存在することを、想定することもまた、ある個人の想定であることになります。
ここから、「認識論的個人主義者が、他者の存在を想定することは自己矛盾している」ということを主張したいのですが、それを主張するには、まだ途中の論証を補う必要があるでしょう。

認識論的個人主義者は次のように反論するでしょう。
<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

 さて、この反論にどのように答えましょうか。