哲学が嫌われる理由

ドレスデンのFrauen Kirche 聖母教会です。
3年前には、まだ修復が完了していませんでしたが、今回は中に入ることが出来ました。
この教会は、聖母教会なのですが、ルター派の教会です。宗教改革の後、ルター派が古い教会をのっとったのですね。日本の神社にもよくあることです。

これは最近、Hさんに教えられたことです。
普通の人々から哲学が嫌われるのは、「哲学が、知の基礎付けがないとか、善悪の判断には根拠が無いとか言って、人々を不安にさせる」と言うことにあるということでした。

おそらくそのとおりでしょう。人々は、さまざまな常識を信じて生活しています。哲学は、その常識に疑いを向けるのだから、人々は彼らの生活の前提を疑われる、あるいは否定されるかのように感じるのです。生活してゆくためには、「常識の検討」を括弧に入れなければなりません。

哲学好きの人間は、「常識の検討」が好きなのですが、しかし彼が日常生活も適当に行なっているとすれば「常識の検討」を括弧に入れるのが、上手なのか、あるいはそれに慣れてしまっているのでしょう。

そのような括弧入れになれていない人間が、「常識の検討」に取り組んだときの方が、すごい哲学できるかもしれません。括弧入れになれてしまった人間は、真剣に「常識の検討」を行なっていないのかもしれません。しかし、真剣に行なえば、哲学者=奇人・変人になってしまう虞もあります。

 「常識の検討」は哲学の魅力でもありますが、嫌われる原因でもあって、この二つはおなじことなのかもしれません。あるとき、ある人には、それが魅力となり、また別のとき別の人には、敬遠のもとになる、ということのようです。