人格の同一性は意識経験の連続性か?

 
   
 
 
オランダのGroningenのホテルからの景色です。今年1月の寒いときでした。
 
 
人格の同一性の基準を身体におけないとき、次に思いつくのは、意識の連続性である。
これはロックの主張であった。サールは、これを次のように定式化している。
「時刻T2における人物P2が、それ以前の時刻T1における人物P1に起こった意識経験を覚えているとき、そしてそのときに限り、時刻T2における人物P2は時刻T1における人物P1と同一である。」
(サールの『マインド』山本貴光・吉川浩満訳(朝日出版)の「第11章 自己」から引用したい。p365
 
サールはこれが循環しているという。
「時刻T2におけるP2が時刻T1におけるP1に起こった出来事を本当に覚えているためには、単にその人がそれを覚えていると考えるのではなく、P2P1と同一でなければならない。」しかし、P2P1の同一性を言うために、記憶の連続性を主張しようとしているのだから、論点先取の循環になっている。
 
これを次のように批判することも出来るだろう。
「時刻T2におけるP2が時刻T1におけるP1に起こった出来事を本当に覚えているためには、単にその人がそれを覚えていると信じるだけでなく、その信念が真でなければならない。」しかし、記憶についての信念が真であることを保証するものは(記憶以外には)ないだろう。
 
(ちなみにエイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.183にも似た議論がある。)
 
身体の連続性も記憶の連続性も、人格の同一性を保証できないとすると、どう考えればよいのでしょうか。