人格の同一性は身体の同一性ではない

アムステルダム中央駅です。

哲学で「人格の同一性」はどうして問題になるのでしょうか。
「Person」を「ひと」「人」「人物」と訳してもよいのですが、ここでは「人格」としておきます。
「人格の同一性」とは、例えば、十年前の私と昨日の私と今日の私の同一性あるいは連続性ということです。このことは、我々が生活する上では、自明のことだと思います。

しかし、我々が認識するのは対象そのものではなくてその観念である、とロックが主張したとき、人格についても、我々が認識するのは、その観念であることになり、そうすると人格の同一性は何によって保障されるのか、ということが問題になり始めました。

そしていったん立てら
れた「人格の同一性の基準何か」という問題は、ロックのような認識論、存在論を採用するかどうかとは独立に、問われるようになりました。

ここではロックにとらわれずに、考えてみたいと思います。

まず、人格の同一性は、身体の同一性によって保障されるのではない、ということを確認しておきましょう。
我々の身体を構成している分子は、80日程度で入れ替わるでしょう、あるいはもっと長い時間がかかるとしても、数ヶ月で入れ替わることは確かです。したがって、人格の同一性は、身体を構成している分子の同一性にもとづいているのではありません。では、分子がつくりだす形態の同一性によって保障されているのでしょうか。しかし、私の身体の形態は、幼児のころとはかなり違います。したがって、身体の形態によって保障されているのでもないでしょう。
他人の身体に脳が移植されたり、グレゴールザムザのようにある朝毒虫に変死するというような思考実験が有名ですが、そのような思考実験が示しているのは、我々の人格の同一性が、身体の形態の同一性には依存していないと言うことです。

そこで、結論です。「人格の同一性は、身体の同一性ではない」

次に検討すべき候補は、意識の連続性です。

というのは、