言わずもがな、への予想される反論

 
 
言わずもがな、への予想される反論
 
「人格論が重要である、という主張こそが、問題なのだ」という反論があるかもしれない。
「人格は存在しないのであって、人格にとらわれているからこそ様々な問題が生じることになるのだ」という反論である。このような仏教的な言説には、たしかに人々を解放する側面がある。しかし、そのような否定的は発言をするだけでは、人格にとらわれている私たちが直面している問題を解決することはできない。もちろん、彼らは、問題を解決するのではなくて、問題を解消することを勧めている。
 しかし仏教者がそのように勧めても、我々は相変わらず人格にとらわれて、人格を前提とした諸問題に悩まされている。そこには原因があるはずだ。(修業が足りない、という原因ではなくて、そもそもなぜ修業が必要になるのか、という原因があるはずだ。)人格は存在せず、それが存在すると思うのは、「物象化的錯視」(広松渉)であるかもしれない。しかし、物象化にはそれなりの原因があるはずである。マルクスや広松が明らかにしようとしたように、それは生産関係に基づくのかもしれないし、あるいは別の説明が可能かもしれない。人格が社会的に構成されるものであることは、仏教者もマルクス主義者もルーマンのようなシステム論者もあるいは構造主義者も、概ね認めることであろう。
 仮に人格が存在しないとしても、それが社会的にどのように構成されているのかを明らかにすることが必要である。というわけで、やはり「人格とは何か」という問いに答えることが重要なのである。
 
 もう一つ考えられる反論は、一般的な「人格」ではなくて、かけがえのない〈私〉(永井均)について考えることの方が重要であるという反論である。〈私〉についてどう考えるかは、形而上学の問題であって、これの答えがどうであれ、人格としての私たちが直面している問題は、そのまま残り続けるだろう。かけがえのない〈私〉は何か、という形而上学的な問題を重視することによって、比較の眼差しにさらされている現実の人間関係の問題から解放されるように感じた人々がいたが、それは孤立の問題や引きこもりの問題に形を変えただけかもしれない。〈私〉についての形而上学の問題は残るにせよ、やはり「人格とは何か」という問題は重要だ。