大学の銀杏はまだのようです。この天気とおなじような、どんよりとした補足です。
久しぶりの補足です。
■無関心という悪意
「苦しんでいる人がいるのに、それを無視することは、悪である。助けられないのならば、仕方ないかもしれないが、助けられるのに、助けないのはえて、悪である。もしこのようにいえるのならば、我々のほとんど全ての人は悪人である。苦しんでいる人に対する無関心は、悪である。」
と書きましたが、その悪に気付いていながら、無関心を続けるとき、その無関心は悪意である(あるいは、悪意と区別できない)。
■特異な悪意を作り出すのは、私たちの悪意である。
「特異な悪意」は、悪意のポジティヴフィードバックの中で起る。この悪意のポジティヴフィードバックは、偏在する社会の無関心=悪意、によって引き起こされるのではないか。インターネット空間は、それを加速させることがある。特異な悪意を作り出したは、私たちの悪意なのではないでしょうか。
■競争社会と無関心
無関心である理由として、競争社会の中で勝ちたいという意図が働いているのではないか。共同体を離れて都会にくると、その空気は私たちを自由にする。それは、無関心という悪や悪意を互いに許容するという空気である。都会の競争社会を生きることと、無関心という悪を生きることは、不可分に結びついている。そして、現代では、世界全体が都会化している。世界全体が、競争社会になっている。
■承認願望と無関心
競争の中で生き抜くためには、限られた資源を有効に使わなくてはならない(選択と集中)。そこで、ある課題に対する努力と関心の集中と、その他の事柄に対する無関心、が生じる。例えば、中高生は受験に集中して、他のことに関心を持てない。会社員は、会社の仕事に集中して、家庭に関心を持てない。多くの人は、目先の課題に集中して、苦しんでいる人々に関心を持てない。
承認を求めようとするとき、それ以外のことに対する無関心が生まれる。承認を求めようとすることが、他の人に対する無関心、忘却になる。 仕事をして認められるという承認は、一方向的な承認である。一方向的な承認の追及は、排除、忘却、を伴う。
資本主義社会の中での、相互承認は、法的な権利主体としての相互承認と、私的な恋愛や友情や仲間などの相互承認だけかもしれない。しかし、これでは苦しむ人への無関心や忘却の回避には向かわない。