有島武男の歌碑「浜坂の遠き砂丘の中にして、さびしき我を見出でけるかも」
有島は大正
12年4月30日にこの歌を詠み、約一か月後に情死しました。この歌で鳥取砂丘は有名になったそうです。
反論への正しい応答
少し復習しよう。
(1)<人格の同一性=身体と心的内容の連続性>と考えられることが多いのだが、その場合の困難は、それを個人の記憶で保証することができないということであった。
(2)この困難については、Davidsonの三角測量で克服できるかもしれない。つまり、身体と心の連続性は、個人の記憶ではなくて、当人と他者の記憶によって公共的に保証されるのである。
(3)<三角測量によって人格の同一性を保証することは、もし三角測量が人格を前提しているのなら、循環論法になる>
以上の議論と、私のこれまでの議論が異なっているのは、(1)の部分である。私たちの信念は問いに対する答えであり、それゆえに、<人格は問答の連鎖である>と考えた点が、従来の人格論と違っている点である。(Davidsonの三角測量を、人格論に応用することが、新しい論点であるのかどうかは、わからないが、これは誰でも思い付く応用である。)もちろん、問答の連続性として人格をとらえても、上記の循環論法になるというという反論は成り立つだろう。
さて、反論に応えよう。反論は、次のようなものであった。
「三角測量は、私や他人の存在を前提している。したがって、三角測量によって、(私や他人の)人格(の同一性)の成立を説明することは循環論証である」
しかし(自分で挙げておいて申し訳ないのですが)この反論はよく見ると的外れだった。
三角測量を持ち出したのは、人格の同一性を保証するためであった。より具体的にいうと、例えば、昨日のある人物と今日の私が同一人物であることを保証するために、三角測量に頼ったのである。この場合に三角測量が前提する人格は、今日の私と(今日の私がコミュニケーションする)ある他人である。この三角測量をするために、昨日のある人物と今日の私が同一であることを前提する必要はない。従って、ここには循環はない。
もし人格の同一性の問題が、「時点T1における人格1と時点T2における人格2が同一であるとはどういうことか」とか「それらの同一性をどのようにして知ることができるのか」という問題であるとすれば、その問題に答えるときに、三角測量を利用することは、循環論証にならない。
確かに、個々の人格が最初にどのようにして発生するかの説明、或いは個々の人格が社会的にどのように構成されるのかの説明が、三角測量に頼るとするとそれは循環論証になるだろう。
しかし、三角測量による人格の同一性の説明は、ある時点での人格の存在を認めたうえで、その人格のより長い時間にわたる同一性を説明するためのものであった。短時間の人格をもとにして、長時間の人格を説明するということであった。したがって、ここに循環論証はない。
そこで(?)次の問題を考えたいと思います。
「ひとはなぜ、長期にわたる人格の同一性を必要とするのでしょうか」t>
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