「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」

 
            森の中は、水槽の中のようです。
 
 
03 「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」(20120809)
 
01で1990年代以後の日本社会(ないし日本の人文社会科学)の緊急の課題は、
    「グローバル化とは何か」
  ・「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」
の二つに変化したと言いました。これは、日本に限らず、グローバルな変化であろうと思います。
 
社会のグローバル化によって、社会問題はグローバル化し、それに対する解決にはグローバルな取り組み、グローバルな制度が必要になります。また問題が、事実認識と意図の矛盾から生じるのだとするとき、社会問題は意図や目的や価値観の社会的共有を前提します(これについては、書庫「問答としての社会」で論じる予定です)。したがって、グローバルな社会問題の場合には、意図や目的や価値観のグローバルな共有を前提することになります。社会問題のグローバル化は、必然的に価値観や文化のグローバル化を伴っているのです。
 
例えば、「グローバリズムにどう対応するのか」という問題の一つの具体化は次の問いです。
 
問題1「グローバルな単一市場資本主義を認めるのか。
    認めないとしたら、それをどう規制するのか」
 
このような問題意識の背後にある規範、あるいはこれの答えを見つけようとするときに従うべき一つの基準は、「差別と貧困と格差をなくして、自由で平等で平和な社会を実現すること」ではないでしょうか。これは、ほぼグローバルに共有されている価値観であり、(少なくとも当面の)世界の目標として共有されているのではないでしょうか。(この目標が現実には程遠いことは誰もが認めることであり、その実現が非常に困難であることも誰もが認めることであるとしても、これを否定するひとはほとんどないのではないでしょうか。)もしこのような価値観を世界の人々がほぼ共有できているのだとすると、そのことだけでも人類史の大変大きな達成です。
 
ただし、ここでの「自由」や「平等」の意味は、伝統的な文化の分厚いコンテクストを持っていません。たとえば、「人権」という規範は、(近代西洋でその概念が登場したときには、ジョン・ロックにおけるようにキリスト教が背景にあったのだが)現代においてほぼグローバルに受け入れられているものとしては、キリスト教のコンテクストを前提していません。
 
これは分厚いコンテクスト抜きに共有されている規範です。この規範を究極的な仕方で基礎付けることは難しいですが、この規範のグローバルな受容ないし妥当性を正当化することは必要です。(この正当化は、(哲学などの)専門家だけによって行われれば十分でしょうか。それともこの正当化自体が、グローバルに共有される必要があるでしょうか。これは、今後の課題としておきます。)
 
「グローバル化にどう対応するか」という問題のもう一つの具体化は、次の問いです。
 
問題2「グローバルな共通文化の支配を認めるの
か?
    認めないとしたら、個別の文化や言語の意義は何か?」
 
これに答えるときの基準の一つは「個人の自己決定の尊重」であると思われます。これもまた、グローバルに共有されつつある規範だと言えるでしょう。ただしこの場合の「個人の自己決定の尊重」もまた、それがグローバルに共有されるためには、特定文化の歴史的なコンテクストから自由になる必要があります。
 
文化はグローバル化によって、どのように変容するのでしょうか。
しばらく、この問題を考えたいとおもいます。
 
(といっても、お盆は帰省しますので、お休みします。)