死に対する態度と心の哲学

                                  ピンぼけの 写真のような 夢の跡
 
  久しぶりにこの書庫に書き込みます。
 
死に対する態度と心の哲学 (20120912)
 
生物として私の死も、ロボットとしての私の死も、区別して論じる必要はないかのように書きました(2007/10/23と、その後の数回)。しかし、そうでしょうか?
 
もし、私の脳の情報が、コンピュータの中にコピーされて、コンピュータとして私が考え、それを搭載したロボットとして生きていくことができたとしたら、そのときには、私は単なる機械であり、自然現象です。もしそうなったとしたら、ロボットとしての私の死に対する態度は、変わるでしょう。
もちろん、私が生物であったとしても、心についての物理主義を採用するのならば、ロボットの場合と同じです。その意味では、生物かロボットかの違いではなくて、心をどう考えるのかの違いです。
 
現代哲学には、「心の哲学」と呼ばれる分野があります。そこでの中心問題は、心と脳との関係です。これについての主な主張は、次のようなものです。
  心と脳は別の実体であるとする二元論
  脳しかないという一元論
  心しかないという一元論、
二元論は、心と脳の間の相互作用を説明する必要があるけれども、それを説明できないという問題を抱えているので、現代では少数派です。
心しかないという一元論(観念論)も現代では少数派です。
多くの研究者は、脳しかないという一元論(物理主義)を主張するのです。しかし、この中には、ひとは心があると思っているが、実は心は存在しないのだという心の消去主義の立場と、心は脳の状態やプロセスに随伴する(supervene)と考える立場(例えばDavidsonの非法則的一元論など)があります。
 
書庫「物理主義からの倫理」では、「仮に心の哲学での物理主義が正しく、人間の心が脳の中の物理的な過程や状態に過ぎないとし、心の働きに自由がないとすると、倫理や道徳をどのように理解することができるのか」ということを考えました。
 
物理主義が正しいとしたら、道徳や倫理に関わるだけでなく、私たちの死に対する態度にも大きな影響を与えることになる、ということに今頃になって気づきました。この場合には、私たちの死は、冷蔵庫が壊れるのと同じ事になってしまうのでしょうか。現在のパソコンが壊れるのと、未来の人間であるAIが壊れるのは、同じ事になってしまうのでしょうか。
 
この問題に、どこから手を付けたらよいのか、アイデアがありましたら、おねがいします。
 
 
 
 
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