文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

                                   パトカーもまた世界中で似たような形をしています。

           

09 文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

問い「文化をグローバル化するとはどういうことか?」に対する

前回の答えは次のものでした。

「もしプラグマティックな関心から文化の選択が行われているとすると、文化をグローバル化するとは、次のいずれかである。

  ①ある文化の有用性をグローバルに知らせること

  ②ある文化を、グローバルな有用性をもつように変化させること 」

この二つはどのような関係にあるでしょうか。

①で、ある文化の有用性をグローバルに知らせるためには、<その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

②で、ある文化をグローバルな有用性をもつように変化させるためには、<その文化をグローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

 この二つの前提は、少し異なっています。

  <その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>

  <その文化をグローバルに理解可能なものにすること>

とりあえず、後者が何を意味するのかを考えたいとおもいます。

前回取り上げた文学を例にすると、日本語で書かれた文学作品はローカルな文化です。それをグローバルに理解可能なものにするには、翻訳する必要があります。しかも、厳密に言えばすべての言語に翻訳する必要があります。(ニュースも同様です。CNNのニュースは、各国語に翻訳されて放送され、日本のニュースも各国語に翻訳されて世界のニュースになります。)

「私たちは日本文学をローカルな文学として理解していますが、それをグローバルな文学として理解することはできるのでしょうか?」

 たとえば、村上春樹の小説を日本語でよむことは、それをローカルな文学として読むことでしょう。それは多くの外国語で翻訳されていますが、外国人は、それを日本文学としても読むのでしょうか。それともグローバルな文学として読むのでしょうか。例えば、エジプト人がそれを日本文学として読むことも、外国文学と読むことも、世界文学として読むことも、可能であるように思われます。

 たとえば、世界中の人がスパゲッティをイタリア料理として食べていたとしても、スパゲッティは世界中に普及しているという意味でグローバルな食べ物です。イタリア料理として食べ、かつグローバルな料理として食べることが可能です。そのとき、イタリア料理であることは、その料理の歴史的な起源を説明しているにすぎません。

 もし村上春樹の作品が日本文学として世界中で読まれているとすると、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学です。そのとき、日本文学であるとはその歴史的な起源を説明しているにすぎません。“EN-US”>

 このとき、日本人がそれを日本語で読むときにも、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学なのです。もし多くの日本人が村上春樹の作品をもっぱら<日本文学として>読んでおり、<グローバルな文学として>は読んでいないとしても、それはまた別のことです。