文化をグローバル化するとはどういうことか

                                       チョコレートはグローバルなお菓子です。 アムステルダム、スキポール空港にて。
 
8 文化をグローバル化するとはどういうことか (20121005)
 
 分析哲学は、西欧近代哲学から登場したものですが、それは西欧近代哲学をグローバル化したものではなくて、西欧近代哲学の末流であるがそれとは別のものであるということもできるかもしれません。どちらの理解が正しいのでしょうか。(もちろん、分析哲学はグローバルな哲学ではない、という反論があるかもしれません。しかし、現代論理学や現代の言語学がグローバルなものであると言えるとすれば、それと同じ意味で、分析哲学はグローバルなものであると言えると思います。)
 この問いに答えるためには、「ある文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答える必要があるでしょう。
 文化を変えることは可能です。例えば、日本文化は、明治維新によって変化したといえるでしょう。開国によって日本文化の中に西洋文化が入ってきただけではなく、従来の文化もまた変化したはずだからです。日本文化は、西洋の諸概念を、翻訳語を作ることによって日本語のなかに取り込んできました。その翻訳語を用いて、西洋の社会制度を取り入れてきました。「選挙」や「議会」や「憲法」などが典型かもしれません。これは日本文化の西洋化でした。ある文化の西洋化が可能ならば、ある文化のグローバル化も可能でしょう。
 では、文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか。すでにグローバルな文化があるのだとすると、その文化の諸概念を、翻訳語をつくることによって日本語のなかに取り込んで、その翻訳語を用いて、グローバルな制度を取り入れることによって、文化をグローバル化することができるでしょう。
 
 ところで、日本文化は明治以後西洋化され、戦後はアメリカ化されたとしても、しかし日本文化にとどまっています。それは同じように西洋化されたアジアやアフリカの文化とは異なります。日本文化を西洋化できても、西洋文化と一つになるわけではありません。(西洋文化もまた多様ですが、それはヨコにおいておきます。)これと同様に文化のグローバル化といっても、グローバルな文化と一つになるわけではありません。
 しかしその意味では、現代のアメリカの文化も、西欧の文化も、グローバルな文化そのものではないので、グローバルな文化というものは、文化圏としてはどこにもありません。
 グローバルな文化というのは、ローカルな文化のグローバル化として存在している、というべきかもしれません。ベネディクト・アンダーソンが「国民国家」を想像の共同体だと指摘したように、グローバルな社会やグローバルな文化もフィクションなのでしょう。
 それで?
 もう一度、問い直しましょう。
 「ある文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか」
次のような答え方ができます。
 ①ある文化を世界中に普及させること(寿司を世界に普及させること)
 ②世界中に普及している文化をある文化の中に受け入れること(マクドナルドを受け入れること)
 しかし、これとは異なる答え方を考えてみたいとおもいます。