12 貨幣貯蔵と個人

                                   人間もタイルも劣化する暑さかな (ひねりも劣化する還暦かな)
 
12 貨幣貯蔵と個人 (20130813)
 
前の2回で、フランクファートの自由意志の定義をもちいて、お金への欲求と人格論や自由意志論との関係を説明しょうとしました。しかし、次の区別を忘れていたわけではありません。
 
それは、人格や自由意志の成立と、近代的な個人の成立の区別です。前者は、近代以後の人間にかぎらず、人間が言語を話すようになったときに成立していることだろうと思います。しかし、それから近代的な個人が登場するまでには、長い歴史があります。
 
貨幣経済によって、個人によって解決できる問題が増えたことによって、近代的個人が登場したと言うのが、0509で説明してきた仮説でした。個人が解決できる問題が少ないとすると、個人がもつ「欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求も少なかったと予測出来ます。例えば職業選択の自由がないとすると、「ある職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということも無いでしょう。もちろん、親の跡を継いで、ある職業につかなければならないけれども、その職業に付きたくないときに、「其の職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということがあるかもしれません。しかし、他の職業を選択する余地がまったくないときに、親の職業に就きたいとか、就きたくないとか考えたりしないのではないでしょうか。二階の欲求は、全く選択の自由のないところには成立しないよう思います。もちろん、近代以前の社会でも、個人には選択の余地はあるでしょう。しかし、それは近代社会においてよりも、狭い範囲にかぎられています。人間は言語を持ってから二階の欲求を持っていたけれども、近代的な個人は、それ以前に比べて非常に多くの二階の欲求をもつようになった、という違いがあるだろうおもいます。
 
 しかしそこにあるのは単に量的な問題だけでしょうか。近代的個人の特徴は、お金でひとが一人で自由に解決できる問題が増えたという事だけでなく、自由そのものを求めるひとが登場したということではないでしょうか。自分の自由そのものを求めるひとの登場が、個人の登場ということではないでしょうか。なぜなら、行動や欲求の自由がなければ、個人というものは成立しないからです。(近代的個人、ないし個人主義を定義する必要がありますね。)これを、この文脈で言い換えると、お金への欲求が自己目的になっている人が登場するということです。
 
貨幣社会では、すべての人はお金への欲求を持っています。なぜなら、お金が無ければ生存できないからです。生存への欲求から「お金への欲求をもつことを欲する」という二階の欲求が発生し、これが実現することによって、お金の欲求をもつことになります。しかし、お金への欲求は単なる生存への欲求や快楽や安全などへの欲求を超えて自己目的化することがあります。それはなぜでしょうか。
 
それは、お金は腐らないので、いくらでも貯めておくことができるからでしょう。貨幣には価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3つの機能があると言われています。この最後の価値貯蔵の機能は、お金がいつまでも腐らず錆びずに保存できるということに基づいています。織物やお米とちがって、貨幣は劣化しないので、ほぼ永遠に保存でき、ほぼ無限に貯めることができます。しかし、これはお金への欲求が自己目的化し、無限の欲求となるための、必要条件であっても、十分条件ではないように思います。
 
お金への欲求は、自己目的化したから、無限の欲求になったのでしょうか。それともお金の貯蔵への無限の欲求が可能になったから、自己目的化したのでしょうか。お金への欲求は、なぜ自己目的化したり、無限の欲求になったりしたのでしょうか。これらは、フランクファートのいう二階の欲求とどう関係するのでしょうか。
(お盆の間、田舎で考えてみます。)n>