巨大な橋がつなぐ故郷です。
27 間話 お盆に考えたこと (20130822)
閑話ではないですよ。間話(intermezzo)です。
久しぶりにこの書庫「問答としての社会」に戻ってきました。
この書庫「問答としての社会」では、 「社会問題」を次のように定義しました。
<一人では解決できない問題があり、それを解決するために複数の人々の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む人々の集団を「社会」と呼ぶ>
ここでは、家族や部族や国家もまたこのような意味の「社会」の一つだと考えてきました。ここには2つの問題があります。
①人間は、類人猿の段階から群れで生活していました。従って、個人が登場する前から、人間は集団を作っていたのです。そのことがこの定義には十分反映されていません。もちろん、それは起源についての話なので、それが現在の社会集団を説明するために適切であるとは限りません。そして、起源の説明と、現在の社会の説明の両方を同時に追求することは難しいです。そこで、現代社会の説明を優先しつつ、この定義を改良するという仕方で探究を進めたいと思います。
②さてこの定義では、家族や部族や会社などの説明ができたとしても、国家の説明はできないということに気づきました。なぜなら、柄谷行人によると、国家は共同体の共同体として誕生したからです。柄谷(あるいはマルクス)のこの指摘は正しいように思われます。このことは、歴史研究によって検証すべき事柄ですが、つぎのように推測して見ることはできます。
人間は類人猿の段階から集団を形成していたので、国家が出来る前にも集団があった。人間は個人では解決できない問題を集団で解決していました。しかし、既成の集団では解決できない問題が生じてきたために、<既成集団とは別に、あるいは既成集団を解体して>、国家というより大きな集団を作った、と考えることができます。しかし、この後者の可能性は少ないとおもいます。なぜなら、既成集団が解決していた問題があるのですから、その問題解決のために既成集団を残しておくことが合理的だからです(ただし、この選択は新しく登場してきた問題の内容に依存します)。もう一つの可能性は、<既成集団では解決できない問題が生じたために諸集団が集まってより大きな組織を作った>ということです。柄谷(マルクス)はこちらが正しいと考えるのです。もし新しく生じてきた問題が、個人にとっての問題というよりも、共同体の存続に関わる問題であるなら、後者の可能性が高いでしょう。そして、私もまた後者が正しいだろうと推測します。それは新しく生じてきた問題とは、「いかにして他の共同体との戦いを避けて、共同体の存続を確保するか」という問題であっただろうと推測するからです。
このとき、国家は次のように定義できるでしょう。<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、この問題に取り組む共同体の集団を国家と呼ぶ>
おそらく、起源の説明としては、共同体の共同体は正しいのです。しかし、近代国家では、この性質が隠されています、あるいは消失したのかもしれません。
近代の国家契約論は、自然状態にある個人が安全のために契約によって国家を作ると説明します。この定義は、国家が共同体の共同体であることを隠蔽することになりました。近代国家では、国家が主権を持ち、中間共同体が国家に対する自律性を失い、完全に国家の下位集団になり、国家が、共同体の共同体から、諸個人からなる共同体になったのです。
ace=”MS 明朝”> 国家契約論者は、国家の起源は共同体の共同体であるにしても、当時の国家の本質はすでに共同体の共同体ではなく、諸個人からなる共同体にある(あるいは、あるべきだ)と考えたのでしょう。
これは、時代を先取りしていたとともに、国家の本質を一点において捉え損なったと思われます。まず、これが時代を先取りしていたことを確認しましょう。
■個人問題がふえるとき、家族や共同体の問題が減少する。
ひとが単独で解決できる問題の増加は、個人を作り出します。言い換えると、人が共同体に依存することによって解決した問題が、お金によって一人で解決できる問題になるとき、既成共同体が解決する問題は減少します。米作りのためには、田に水を入れるための共同作業が必要です。しかし、会社に雇用されて、会社で働いてお金を得る場合には、地域共同体との関係は、希薄になります。食事作りや洗濯や風呂を沸かすことが時間のかかる仕事であるなら、家族での分業を必要としますが、機械によって一人で簡単にできるようになると、家族との関係は希薄になります。個人が単独でお金によって解決できる問題が増加すれば、地域共同体や家族の必要性が減少します。貨幣経済によって個人がお金で解決できる問題が増加することによって、「個人」が誕生することによって、中間共同体の弱体化とそれに対応した近代的主権国家の誕生がもたらされたのです。
中間共同体の弱体化と、近代的主権国家の登場とは、次のように関係しています。土地と労働時間が商品となることによって、封建制は崩壊します(中間共同体は弱体化します)。その代わりに、市場のルールの明確化やそのルールの履行を保証し、貨幣の交換価値を保証する国家権力が必要になります。
ナショナリズムは、国家内の文化的言語的社会的多様性を無視して、均質的統一性を強調するのですが、国家契約論がすでに、国家内の中間共同体を無視して、均質な統一性を強調する国家論になっています。
共同体との感情的な結合が、中間共同体の消失とともに失われると、それに変わる同一化の対象が国家に求められるようになり、そこにナショナリズムが生まれてきたと言えるかもしれません。最近の日本で言えば、会社への同一化ができなくなるときに、国家への同一化をもとめ、それが近年のナショナリズムの復活になっているのかもしれません。
■次に国家契約論によって隠された点を確認しましょう。
それは国家の超越性とでも呼ぶべき特徴です。
もし国家が、諸個人が集まって契約によって作った共同体であるとすると、冒頭に上げた「社会問題」と「社会」の定義が国家にもそのまま当てはまります。しかし、もし国家が共同体の共同体であるとすると、国家の定義は、<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、そのような問題に取り組む諸共同体の集団>となります。この後者の場合には、個人にとっての問題であるが、個人では解決できない問題を解決するために国家を作ったのではなくて、共同体の存続という共同体にとっての問題を解決するために作られたものが国家です。共同体によって個人に関わる問題を解決してきたのですから、共同体の存続問題は、もちろん個人にとっても重大問題です。しかし、それは個人にとっての直接的な問題ではありません。
個人問題の解決xのために共同体yを作り、共同体yの存続のために国家zを作ったとすると、xという目的の実現手段が、yであり、yの実現手段がzです。個人の生活がyの中にほとんど閉じている時には、zは個人にとっては直接関わることのない遠い存在です。さて、この状態から、貨幣経済によって、個人問題の解決xが(すべてではないにしても、また完全にではないにしても)yに依存しなくても解決できるようになり、yが弱体化し、その代わりにxが直接にzによる働きかけを必要とするように変化したとしましょう。このとき、個人の問題解決のために、国家が必要になっているのです。そして国家は、そのような働きによって個人から正当化されているのです。しかし起源において国家は個人が作ったものではありませんでした。国家は共同体が作ったものであり、個人を超越した存在でした。国家は、個人によって正当化されており、またそのような正当化を必要としているとしても、それ以前の共同体とは異質と言えるほど、個人からは遠いものです。
定義を、とりあえず次のように変更したいとおもいます。
<個人あるいは社会組織が単独では解決できない問題があり、それを解決するために複数の個人あるいは社会組織の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む個人ないし社会組織の集団を「社会」と呼ぶ>