4 ヒトの群れから人間の共同体へ

                                    臼杵の石仏のなかでもっとも有名なものです。
 
4 ヒトの群れから人間の共同体へ (20140130)
 
 「問いの成立と社会の成立の間に循環関係があるだろうか」
これが問題だった。社会の成立、つまり社会制度の成立が、社会問題に答えるものであるとすると、社会制度よりも社会問題の成立が先行する。そして、その問いそのものが、社会制度の一部であるとすると、問いの成立には、社会問題の成立が先行することになる。つまり、ここに循環ないし、無限遡行が生じることになる。
 
これを明らかにするには、「社会問題」と「問い」を明確に定義する必要があるだろう。
 
まず「社会問題」について。もし<個人が近代になって登場した>のだとすると、<個人的な問題もまた近代になって登場した>ことになる。従って、「社会問題」を以前のように、「個人では解決できず、共同で取り組まなければ解決できない問題」と定義することはできない。なぜなら、社会制度が成立したあと、しかも近代になって個人が登場したからである。人間社会が誕生するとき、私たちが考えるような個人も個人的な問題も存在していなかったのである。社会問題は、単に「人間が共同で取り組まなければ解決できない問題」だといえるだろう。
 
次に「問い」について。「問い」は、意図と現実認識の衝突によって生じる、とこれまで説明してきた。それでは、この意図や現実認識をもつ主体は何だろうか。これまではそれを個人だと考えてきた。しかし、もし個人が近代になって成立するのだとすると、近代以前の人をどのように考えたらよいだろうか。近代以前であっても、人は意図をもち、現実認識をもつだろう。しかし、その意図は、個人の意図ではない。つまり個人的な目的を達成しようとする意図ではない。人の目的は、家族の目的や共同体の目的から独立しておらず、それらを<分有する>ことによって成立するように思われる。(「分有」の意味がまだ曖昧です)
 
では次に、この二つの発生情況を考えて見よう。群れで生活していたヒトの間に、動物レベルの言語が成立したあとで、最初に生まれる問いの発話はどのようなものだろうか。それは、ヒトが自分自身に問いかける問いだろうか。それとも、他の人に向けられる問いであろうか。それは、相手の発言を聞き返すような問いだろうか。それがどのようなものであれ、その問いの発話は、発話のタイプとして制度化されていないはずである。このレベルの問いの理解は、コードモデルではなくて、推論モデルでしか説明できないだろう。その後、問いの発生が反復し、発話のタイプとして共有される様になって、疑問文の発話が慣習となる。それが慣習として共有されるためには、慣習として共有される前に、それが共同体の問題の解決手段として理解されるということは不必要であろう。慣習ないし制度として十分確立した後に、それがなければ、共同体にとって不都合な問題が生じると認識され、逆にその問題を解決するものとして、疑問文発話の慣習が共同体の制度として承認されるのであろう。
 
動物の群れが、人間社会(人間的共同体)になるのは、まさにこの時である。動物としてヒトは群れで生活している。その群れが、疑問文を含む言語によって成り立ており、もし言語がなければ、群れにとって非常に不都合な問題(「どうやって複雑な行為調整をしたらよいのだろうか」)が生じるということに気付き(「言葉がなければ大変だ」)、言語が、群れの問題を解決するものであることを認識し、それを共同体の制度として承認するとき、動物の群れは人間的共同体になる。つまり、それは自然的なルールではなく、人為的なルールによって構成される組織になる。
 
以上は、「問いをもつ言語が、動物の群れと人間社会を分けるものである」という仮定からの推測である。この推測が正しいとすると、次のような結論になる。<当初の問いの発生は、まだ社会的制度ではなく、其の意味で、問いの発生は社会制度の発生に先立つ。問いを含む言語が社会制度とな
るのは、それが社会問題への解決策として事後的に認識されることによってである。つまりここに、問いと社会制度の循環や無限背進は生じない。>
 
 
 

 
 
 

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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