9 原始共同体内の問答(4) 規範の登場

 
9 原始共同体内の問答() 規範の登場 (20140329)
前々々回の問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答えその3。
 答えその1は「共有知」の成立であり、答えその2は「文化」の誕生であった。この二つから、規範性が生じる。
 一定の言葉(概念)の体系を共有することは、文化を共有することである。言葉の使用はある種の規範性をもつ。その規範性は、子供が「あれはオオカミだ」といったときに、「そうだ」とか「いや、あれはオオカミではない」などといって言葉の使用法を肯定したり、訂正したりするときに、明らかになる。<もしある言葉で何かを意味したいならば、その言葉の使用法に従うべきである> 
 

 このような言葉に関する規範性をとりあえず次のように分けることができるだろう。

 

①言葉の使用には、正しい使用と間違った使用がある。言葉の理解には、正しい理解と間違った理解がある。私たちは、言葉を正しく使用し、正しく理解すべきである。
②私たちは、真なる文ないし命題を語るべきであり、偽なる文ないし命題を語るべきでない。
③私たちは、真であると思うことを語るべきであり、偽であると思うことを語るべきでない。(誠実に語るべきであり、嘘をつくべきではない。)
④私したちは、約束をするときには、誠実にすべきである。
⑤私たちは、約束を守るべきである。
 
このような言葉の規範性は、ダメット、マクダウェル、ブランダムなどによって近年強調されている。これに対して、言葉の使用法がもつ規範性は、突き詰めれば何らかの実用的な有効性から説明できるのであり、規範的規則性は、非規範的な規則性に還元可能であると考える(Cf. Horwich, Meaning, chap. 8)批判がある。このような批判は、たとえば、一般的な形でいうと、<言葉を使うことで、実用的な効果Eを得たいのならば、言葉の使用規則Rに従うべきである>という批判になる。つまり、使用規則Rの規範性は、効果Eを達成したいという前件が成り立つことに基づいているのであって、元の条件法そのものには規範性はないという批判になる。しかし、この前件が成り立つことを私たちが理解すること(あるいは、条件法全体を理解すること)もまた、言語(の正しい使用)による。したがって、それらもまた一定の規範性を想定している。人の集団が言語を獲得し、文化を獲得したならば、私たちはその外部に出ることはできないのであり、言語がもつ規範性の外部に出ることはできない。
 (以上の主張は、言語の意味の規範性を否定するHorwichに対する批判になりうるだろうと推測している。言語の使用の規範的規則については、非規範的な規則で説明できたとしても、この説明自体はやはり真である必要があるだろう。つまり、何らかの言葉の使用法に従うべきである。)
 
 言語や文化の規範性は、共有知によって発生する。(これについては、もう少し詳細な論証が必要だろう。ただし、この書庫ではここまでとする。)
 

 

8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生

                                  満開の桜です。ソメイヨシノではないので、毎年早く咲きます。
                今日は大学の卒業式です。おめでとう御座います。
 
 
8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生 (20140323)
前々回の問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答え、その2。
 
前回は、人の自己意識と共同体の共有知がうまれたことを、重要な差異の一つとして述べた。今回は、そこで行われる問答について考えてみよう。
 
問答が行われるとき、言葉を共有していること、つまり語の意味や構文の意味の理解が、共有知となっていることを伴う、ないしは前提する。しかし、言葉を共有することは、同時に世界についての一定の認識を共有することである。「オオカミ」の意味を知ることと、オオカミ(語「オオカミ」の指示対象)が何であるのかを知ることは分離不可能である。
「オオカミだ」というとき、それが人を襲う危険な動物であることの理解の共有があるだろう。世界についての共有認識の基礎的部分は、危険な動物/危険でない動物、食べられるもの/食べられないもの、仲間/よそ者、昼/夜、人/動物、男/女、などの区別からなるだろう。
 
唐突に思えるかもしれないが、これらの区別の総体が、私たちの社会の「文化」の基礎部分である、と考えたい。「文化」とは、言語によって境界線を引くことや区別を立てること、あるいはそれら境界線や区別の総体である、と定義することを提案したい。(異なる文化間の境界は、それぞれの文化の中で、自文化/異文化という境界として存在する。)
 
「あれはオオカミか?」「あれは人か?」「あれは食べられるのか?」などの問いは、それぞれに対応する区別を設定したり、再確認したりするものであり、それに答えることは、その区別を個別的な事物に適用することである。「あれはオオカミか?」「そう、あれはオオカミだ」という一組の問答を共有することと、一つの文化が成立することは、同時である。言葉の獲得によって、人間集団は、こうした文化(問答体系)の中に住むことになる。これは「ノイラートの船」であり、その外部に出ることはできない。
(Neurath's boatについては、http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803100229963などを御覧ください。)
 
 

 
 

原始共同体内の問答(2)

 
7 原始共同体内の問答(2) (20140322)
前回「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」という問いを立て、それに答えようとしたが、うまく答えることができなかったので、もう一度試みたい。
 
西田正則によれば、「サルや類人猿などの高等霊長類は、互いに認知している100頭ていど以内の社会集団(単位集団)を形成し、その集団に固有な一定の地域(遊動域)を、毎日のように泊まり場を移りながら生活している」(西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、p.15)。西田は、この本で何度か「互いに認知している100頭ていど以内の集団」というフレーズを用いている。言語を獲得した後の人の集団も「互いに認知している100人程度の以内の集団」ということができるあろう。しかし、言語の獲得によって、「互いに認知している」の意味は、全く異なるものになる。
 
サルは、群れの個体を同定できるので、そこに新しいサルがやってきたときに、群れの仲間ではないとわかるだろう。そして、それを排除しようとするだろう。しかし、サルには自己意識がない。例えば、サルは、ビデオに写っている自分の好きな雌をそれとして同定できるが、それと一緒に写っている自分が自分だとはわからず、怒り出すというTV番組を見たことがある。サルも類人猿も、鏡やビデオ映像を見て自分だとは分からない。サルには自己意識がないので、おそらく<自分が群れの一員だと他のサルが分かっている>ということを意識することはない。(これに関する比較行動学の知見があれば、教えて下さい。)
 
これに対して、言語を獲得した人類は、「互いに認知している100人ていど以内の集団」であり、よそ者をよそ者だと認知できるが、それだけでなく、<自分が集団の一員であるということを他のメンバーもわかっている>ということをわかっている。この意味で、「互いに認知している」の意味は、サルや類人猿の群れの場合と人の集団の場合では非常に異なる。
 
言葉が成立するためには、「オオカミ」でオオカミを指すことを、みんなが知っていることをみんなが知っていることをみんなが知っているというような「共有知」の成立が不可欠である。「然々の人たちがこの集団のメンバーである」ということが共有知になっており、集団についてのこの種の共有知が、まさに集団を構成する不可欠な要素となっている。
サルの群れには、社会構築主義は妥当しないが、人の集団には、社会構築主義が妥当する。
 
 

6 原始共同体内の問答

                                    今年もまた梅が咲きました。もうすぐ春です。
 

 
6 原始共同体内の問答 (20140304)
 言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。
 
 言語によって、人の群れは、原始共同体になる。共同体は、規則をつくり共有する。また、計画を立て共有する。類人猿でも、群れの規則をつくることは可能である。しかし、人間は、その規則を言語によって明示し、規則はより複雑化し、大きな体系を作る。さらに、その体系は、世界の成り立ちや共同体の歴史についての物語と結合するだろう。共同体は、世界の成りたちや、共同体の歴史物語を共有するだろう。
 共同体は、人が単独では解決できない問題を解決するために作ったものではない。共同体の中で、人は共同体の成員として生まれて、共同体の成員として生存可能である。共同体は、人の存立に先立って存在している。したがって、共同体の中で人々が語る問題は、共同体が抱える問題であり、その解決策を相談し合意し、共同体で実行する。
 共同体の中で、二人の利害ないし二つの小グループの利害の間に対立が生じる場合があるだろう。しかし、共同体の中では、共同体にとっての利害の考慮を、つねに優位において決定が行われるだろう。なぜなら、人は共同体を離れては存続できず、共同体が、共同体としての利害を追求することは自明のことだからである。人にとっての利害は、常に二義的なものである。
 
 言語によって、ヒトの群れが人の共同体に変化するのと同じように、ヒトの個体もまた、類人猿の個体よりもより自立性を持った個体になるだろう。人は鏡に写った自分を自分だとわかり、自分を指差しや名前や人称代名詞で指示することができ、「自分の物」という意識が生まれ、自分が損害を受けた時には、復讐しようとするようになる。自分の共同体の中での地位や役割を理解し、自分の過去を記憶し、自分の未来についての一定の予測をする。人は、言語によってそういう個体となるだろう。