8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生

                                  満開の桜です。ソメイヨシノではないので、毎年早く咲きます。
                今日は大学の卒業式です。おめでとう御座います。
 
 
8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生 (20140323)
前々回の問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答え、その2。
 
前回は、人の自己意識と共同体の共有知がうまれたことを、重要な差異の一つとして述べた。今回は、そこで行われる問答について考えてみよう。
 
問答が行われるとき、言葉を共有していること、つまり語の意味や構文の意味の理解が、共有知となっていることを伴う、ないしは前提する。しかし、言葉を共有することは、同時に世界についての一定の認識を共有することである。「オオカミ」の意味を知ることと、オオカミ(語「オオカミ」の指示対象)が何であるのかを知ることは分離不可能である。
「オオカミだ」というとき、それが人を襲う危険な動物であることの理解の共有があるだろう。世界についての共有認識の基礎的部分は、危険な動物/危険でない動物、食べられるもの/食べられないもの、仲間/よそ者、昼/夜、人/動物、男/女、などの区別からなるだろう。
 
唐突に思えるかもしれないが、これらの区別の総体が、私たちの社会の「文化」の基礎部分である、と考えたい。「文化」とは、言語によって境界線を引くことや区別を立てること、あるいはそれら境界線や区別の総体である、と定義することを提案したい。(異なる文化間の境界は、それぞれの文化の中で、自文化/異文化という境界として存在する。)
 
「あれはオオカミか?」「あれは人か?」「あれは食べられるのか?」などの問いは、それぞれに対応する区別を設定したり、再確認したりするものであり、それに答えることは、その区別を個別的な事物に適用することである。「あれはオオカミか?」「そう、あれはオオカミだ」という一組の問答を共有することと、一つの文化が成立することは、同時である。言葉の獲得によって、人間集団は、こうした文化(問答体系)の中に住むことになる。これは「ノイラートの船」であり、その外部に出ることはできない。
(Neurath's boatについては、http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803100229963などを御覧ください。)