7 原始共同体内の問答(2) (20140322)
前回「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」という問いを立て、それに答えようとしたが、うまく答えることができなかったので、もう一度試みたい。
西田正則によれば、「サルや類人猿などの高等霊長類は、互いに認知している100頭ていど以内の社会集団(単位集団)を形成し、その集団に固有な一定の地域(遊動域)を、毎日のように泊まり場を移りながら生活している」(西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、p.15)。西田は、この本で何度か「互いに認知している100頭ていど以内の集団」というフレーズを用いている。言語を獲得した後の人の集団も「互いに認知している100人程度の以内の集団」ということができるあろう。しかし、言語の獲得によって、「互いに認知している」の意味は、全く異なるものになる。
サルは、群れの個体を同定できるので、そこに新しいサルがやってきたときに、群れの仲間ではないとわかるだろう。そして、それを排除しようとするだろう。しかし、サルには自己意識がない。例えば、サルは、ビデオに写っている自分の好きな雌をそれとして同定できるが、それと一緒に写っている自分が自分だとはわからず、怒り出すというTV番組を見たことがある。サルも類人猿も、鏡やビデオ映像を見て自分だとは分からない。サルには自己意識がないので、おそらく<自分が群れの一員だと他のサルが分かっている>ということを意識することはない。(これに関する比較行動学の知見があれば、教えて下さい。)
これに対して、言語を獲得した人類は、「互いに認知している100人ていど以内の集団」であり、よそ者をよそ者だと認知できるが、それだけでなく、<自分が集団の一員であるということを他のメンバーもわかっている>ということをわかっている。この意味で、「互いに認知している」の意味は、サルや類人猿の群れの場合と人の集団の場合では非常に異なる。
言葉が成立するためには、「オオカミ」でオオカミを指すことを、みんなが知っていることをみんなが知っていることをみんなが知っているというような「共有知」の成立が不可欠である。「然々の人たちがこの集団のメンバーである」ということが共有知になっており、集団についてのこの種の共有知が、まさに集団を構成する不可欠な要素となっている。
サルの群れには、社会構築主義は妥当しないが、人の集団には、社会構築主義が妥当する。