1 公人と私人の使い分け

                    春の夜の職場です
 
(「問答としての社会2」での議論が、まだまだ時間が掛かりそうです。まだ国家の誕生まですら行っていません。そこで、すこしこの書庫に寄り道したいと思います。)
 
 1 公人と私人の使い分け(20140421
 
 この書庫では、まず、最近気になっている「立場の使い分け」という問題から考察を始めたいと思います。それは次のような問題です。
 NHK会長の政治的な発言が問題になったときに、彼は、その政治的な発言は個人としての発言であり、会長としての考えでないと釈明した。このような個人と公人の区別による釈明は、釈明として成り立つのだろうか。
 ある人物Xが、二つの異なる役割ABをもち、XAとしてaを発言し、Bとしてbと発言したとしよう。この二つが無関係な発言であれば、そこには何も問題は生じないだろう。しかし、その二つの発言が矛盾するとしたら、その矛盾は、Aとしての立場とBとしての立場の違いによって、解消できるものだろうか。
 これについて、しばらく考えたいと思います。
 
 

11 原始共同体内の問答(6) 共同体の歴史

               数日前の満開のサクラです。今年はなぜかサクラに心を動かされませんでした。
 
11 原始共同体内の問答() 共同体の歴史 (201404014)
 前回、共同体の同一性について述べたが、それに関連して付け加えるべき事柄が残っていた。それは、記憶の問題と、他の共同体との区別関係である。
 まず、記憶について。前回見たように、共同体の自己同一性は、記憶ないし集団的記憶を必要とする。記憶は通常、対象の記憶とエピソード記憶に分けられる。動物には対象の記憶はある。犬が、数年前飼い主であった人を記憶していたとか、イルカが、20年前の仲間を記憶していた、というような報告がある。しかし、動物のエピソード記憶の存在は報告されていない。なぜなら、エピソードの記憶は、エピソードの語りとして確認できるが、動物は言語で語ることができないので、動物がエピソード記憶をもつことを確認することができないからである。これに対して人間はエピソード記憶を持つ。
 言語によって人は、エピソード記憶を持つことが出来、さらに自分の人生についての記憶(自伝的記憶)を持つことができるようになり、それが共同体のなかで確認されることによって人格の同一性が成立することになるだろう。これと同様に、共同体もまた共同体の出来事についての人々の記憶を互いに確認しあうことによって、共同体にとっての出来事の記憶を共有する事になるだろう。これを集団的記憶と呼ぶことにしよう。この集団的記憶によって、共同体の歴史を共有することができ、それによって共同体の同一性や歴史が社会的に構成されることになる。人の人生は、家族の歴史や数十人の部族の歴史のなかで部族の歴史の一部として構成される。
 共有知が形式であり、その内容となるのが概念体系(文化)であり、それと類比的に、共同体の自己同一性が形式であり、その内容となるのが共同体の歴史である。共同体は、集団で記憶を共有することによって、歴史を共有する。
 エピソードの集団記憶によって可能になることの1つは、集団全体でおこなう約束である。未来のことを約束しても、それが当事者たちに記憶されなければ、約束は成立しないが、集団的記憶によって、未来の行為についての約束が可能になる。集団全体で行う約束によって、集団内に掟が成立する。おそらく、集団内の複数の人間の間の約束というのは、おそらく部族全体の取り決めが拘束力をもつものとして成立するようになった後で、初めて成立するだろうと推測する。なぜなら<約束できる個体>というような観念は、共同体全体での取り決めが成立する前には、成立しなかっただろうと推測するからである。

 

10 原始共同体内の問答(5) 共同体の同一性

                                            あるお祝いでお花をいただきました。ありがとうございました。
 
10 原始共同体内の問答() 共同体の同一性 (20140406)
 問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答えその4。
 答えその1は「共有知」の成立であり、その2は「文化」の誕生、その3は「規範」の登場であった。その4は、「共同体の同一性」(の構成)である。
 誰が集団のメンバーであるのかについての共有知が成立し、文化や規範を共有していることについての共有知が成立する。これらによって、狩猟採集する数十人の遊動集団が、一つの集団を構成することもまた共有知となる。サルの群れもまた、他の群れと容易に融合したりせず、その意味で一つの集団を形成しているといえるだろう。しかし、彼らは、その群れが一つの群れであることを互いに知っているのではない。「私の集団」とか「私たちの集団」とか「この集団」と呼ぶことはない。言語を持つ人の集団では、このような指示表現によって、人は自分たちの属する集団を同定し、この同定をメンバーが共有することによって、集団の同一性が集団的に構成される。
 集団の同一性の説明は、人格の同一性の説明と似たものになるだろう。人の細胞や組織が入れ替わるように、集団のメンバーは、その誕生と死によって、入れ替わる。そのとき、変化しないものは、文化である。これは、人の細胞や組織が入れ替わっても、その人の容姿が変化しないのと類似している。もちろん、人の姿形は、年齢とともに連続的に変化し
てゆくが、それは文化も同様である。姿形の変化の連続性によって、人格の同一性を保証するためには、変化の連続性を記憶によって保証する必要がある。この記憶の正しさを保証するものは、物理的な証拠、他人の記憶などである。集団の場合にも、集団の同一性を保証するのは、文化の連続性や集団の歴史についての記憶であろう。集団についての幾人かの記憶を集団のメンバーで共有し、あとの世代に伝えるということが行われてゆく。仮にこのような記憶を「集団的記憶」と呼ぶならば、このような集団的記憶によって、集団の同一性(物語的な同一性)が集団的に構成される。(後の議論になるが、国家と人の関係は、共同体と人の関係よりも、より抽象的であるので、国家の統合にとっては、同一性は、共同体にとってよりも、より重要なものになるだろう。)