登山家に山が必要なように、人生には壁が必要です。
2 同調圧力と自我の分裂(20140503)
日本の政治家は、しばしば公人と私人の区別によって発言や行為の責任を回避しようとする(日本以外にもあるのかもしれないが)。公人としての発言と私人としての発言が、異なるテーマに関する発言であるならば、たとえば、政治についての公的な発言と、趣味についての私的な発言であれば、それらが矛盾することはないだろう。つまり役割の使い分けとしての公私の使い分けは必要なことだ。
人には複数の役割があり、会社員、夫、父親、友人、自治会員、スーパーでの買い物客、ドライバー、などである。それぞれの役割に応じて、すべき行為、考え発言すべき内容やその相手が異なる。政治家として、政治的発言をし、私人として買い物をすることは別のことである。通常はそのテーマや内容はことなるので、互いに矛盾することはない。
ところが、である。友人と話しているときに、会社の悪口を言ったとしよう。それがブログを通じて会社にバレたとしよう。そのために、会社がその社員にペナルティーを課したとしよう。これはしかたのないことではないだろうか。会社にバレなければ、問題にはならないが、バレてしまったとしたら、会社での発言と友人に対する発言との矛盾の責任は引き受けなければならないのではないか。
これは政治家の場合も同様である。同じテーマに関して公人として発言し、またそれと矛盾することを私人として発言し、その矛盾が公的に知られた場合には、その矛盾の責任を引き受けなければならないだろう。これは、昔から言われている本音と建前の矛盾だろう。本音と建前が矛盾しており、本音が公になり、建前との矛盾が公になった時、その責任を取る必要がある。逆に言うと、それがわかっているからこそ、人は建前と矛盾する本音を公の場で隠すのだ。
役割の使い分けとしての公私の使い分けは、必要なことだが、本音と建前の使い分けとしての公私の使い分けは許されない。
しかしこれだけでは、政治家の公私の使い分けの問題はスッキリと分析された気がしないのだが、うまく捉えきれないので、別の角度から考えてみたい。
本音と建前の区別というのは、何か日本的なもののような気がするのだが、なぜそう感じられるのだろうか。日本では、聖徳太子の時代から「和をもって尊しとなす」とされ、他者との協調性が重視された。KYもその流れである。和を保とうとすると、人は自分の意見や慾望を抑えなければならない。そうするとそこに本音と建前の使い分けが生じ、社会や他者との葛藤は、本音と建前の矛盾として自己のうちに持ち込まれることになる。
日本人にとっては、自己の中に本音と建前の矛盾があることは、よくあること、あるいは常にあることと考えられており、倫理的に許されないこととは考えられていない。社会の和を乱すことは悪いことであり、自己の中に矛盾を抱えることは悪いことではないと思われているのではないだろうか。(仏教によれば、自我など存在しないのだから、一つの「本当の自分」をもつ必要はなく、自分の中に矛盾があっても倫理的には問題にならないのかもしれない。)日本人は、自己の中の矛盾が社会に公になることによって社会の和を乱さない限り、各人の内部の矛盾に寛容であり、社会内の矛盾や衝突に不寛容である。
西洋社会がそうであるかどうか分からないが、個人の自己同一性を重要視する文化があるとすると、その文化においては、個人の自己同一性を貫くことによって、他者や社会と衝突が生じることに人々は寛容であるだろ。社会の中に多様な人がおり、他人と異なった意見をもち、対立する慾望を持った人々が生活しており、社会の中に常に様々な葛藤が存在することが普通だと考えることになるだろう。自己同一性を確保しようとすると、社会の分裂(不和)に寛容になり、逆に、社会の和を重視しようとすると、自己の矛盾に寛容になる。