3 自己矛盾に寛容な社会と分人主義

                

 
 
3 自己矛盾に寛容な社会と分人主義 

(20140511)

「日本社会は、社会の和を重視するために、個人の自己矛盾に寛容である」
もしこのように言えるとすると、そこからさらに、「日本社会は、矛盾に寛容である」と言えるかもしれない。しかし、これを学問的に証明することは難しいかもしれない。いまのところ、そもそも何を示したら証明したことになるのかすらよくわからない。とりあえずできそうなことは、日本文化史の中に証拠となる言説事例を探すことである。
 
 現在の以下の情況もまたその事例となるだろう。安部首相は、本来は憲法9条を改正して軍隊を持てるようにしたいのだろう。つまり、彼は、憲法9条と自衛隊の保持が矛盾しており、憲法9条を解釈することによって、自衛隊の保持を可能だと考えることには無理がある、と考えているはずである。それにも関わらず、憲法9条の解釈によって集団的自衛権を持てるようにとすることは、彼のこれまでの考えと矛盾するはずである。このようなあからさまま矛盾に彼はなぜ無頓着なのだろうか。また社会はなぜ首相のそのような矛盾を批判しないのだろうか。マスコミの弱腰もあるが、日本社会が一般的に、矛盾に寛容なためではないだろうか。これを許しているということは、日本社会が議論が力を持たない社会になっていることを許しているということである。
  
・1990年代以後の自我論の流行
 1989年の冷戦終了後のグローバル化の中で、国家は共産主義国家への対抗の必要がなくなったために政府は福祉を切り捨て、代わりにボランティアを利用しようとし、会社は社員を使い捨てにし始めた。そのために人々は、会社に自己同一化する会社人間であることができなくなり、人々のアイデンティティが揺らいでいる。宗教への依存は、オームリ真理教事件のために抑えつけられ、国家への依存が強まりつつあるために、現在、ナショナリズムが強まりつつ在るのではないかと推測する。こうしたアイデンティティのゆらぎの中で、1990年代以後、自我論や自分探しが流行しているのではないだろうか。
  
・こうした自我論の流行の中で登場した平野啓一郎の「分人主義」について考えてみたい。近代的「個人主義」は、個人(individual)はそれ以上分けられない存在であると同時に、個人は社会から分けられ独立した自由な存在である、と考える。それに対して、平野の「分人主義」は、個人がさらに複数の分人に分けられると考えるが、「分人dividualは、他者との関係においては、むしろ分割不可能である」(平野啓一郎『私とは何か』講談社現代新書、p. 164)と、つまり他者と密接に結合しており、人間は、「他者との分人の集合体だ」(p.164)と考える。この書物を私が最初に読んだときに感じたことは、自分の生活実感をうまく表現してくれているということであった。そして、それがある意味で未来的な自我のあり方を捉えていると感じた。しかし、日本社会では、強い同調圧力が、自己内に分裂をもたらしているのではないかと考え始めてから、この分人主義というものも、そういう日本社会に特有の発想であるかも知れないと思い始めたのである。
 考えたいのは、この分人主義が、<同調圧力のために、自己内に分裂をかかえる社会に特有の思想>なのか、それともこれは<社会が多元的になってきたために生じた先端的な思想>なのか、ということである。
 前回述べたように、社会からの同調圧力が高いために自己の主張や慾望を抑え、そのために自己内に矛盾や葛藤を抱え込む、ということは、「本音と建前」として日本人におなじみの事柄だといえるだろう。
 平野氏は「分人主義」を、古臭い「本音と建前」とは異質のものだと考えている。両者の第一の違いは、「本音と建前」では、本音がいわば「本当の自分」だと考えられているが、これに対して、平野氏は「たった一つの「本当の自分」など存在しない」(『私とは何か』p. 7
)「裏返していうならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である」
(p.7)ということである。
 現代の多くの論者が「本当の自分などない」と言うのに対して、たった一つの本当の自分はないが、多くの本当の自分があると考える点で、平野氏の主張はユニークである。
 
 このような分人主義は、同調圧力の強い社会に特有のものなのだろうか?