10 大衆消費社会から自我の多元化へ

 

今日は巴里祭です。フランス革命をジャスミンティと中華料理で祝いました。

 
10 大衆消費社会から自我の多元化へ (20140714)

 
社会学者浅野智彦は『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』(河出ブックス、2013)において、大衆消費社会と関係付けて、自我の多元化を説明しているので、それを紹介したい。まず1980年代のバブルの頃に、消費社会論が流行したが、当時のボードリヤールのガルブレイス批判などに依拠しながら、浅野は次のように指摘する。
 
「自分を選ぶという営みが消費という形式を取ることによって、誰にでもできるようになる。これが80年代におこったことなのである。あるいは、こういってもよい。消費とこのような形で結びつくことではじめて自分らしさは多くの人々によって追求されるべきものへと昇格したのである。」(同書60
 
浅野は、80年代における消費と自己のむすびつてきは、次の四つの効果をもったという。
 
「消費と自分との結びつきは、以下の様な四つの効果を持った。第一に、それは1960年代以来伏流してきた本当の自分、自分らしさという問題系にだれもがアクセスできる手軽な回路を与えた。第二に、その結果、自分というものが自分自身の選択と構成の結果であるという感覚が定着していった。第三に、本当の自分、自分らしさというものが虚構に拮抗する現実の重さとして希求されるが、第四に、いかなる「ほんとうの自分」も結局はもうひとつの虚構であるという感覚がそれとともに台頭する。」63
 
1980年代に入ってからの社会学的自己論は、1980年代に醸成されたこの感覚を理論的言語に翻訳することによって成り立っていたようにも思える。すなわち、自己とは社会的に構成されたものであり、また自己について語る物語として成り立つ」63
 
浅野は、ここで、消費社会論による自我論が、自我の多元化だけでなく、自我の物語的構成へも通じることを指摘しているが、これについては、別途扱うことにして、このような消費社会論から、90年代以後の「自己の多元化」への道筋について、浅野は次のようにまとめている。
 
「本当の自分、自分らしさといった問題系が消費という触媒を得て大衆化された後、いったい何が起こるのか」
第一に、自分らしさ志向、「個性尊重」の名のもとに学校教育の中へ。そして「やりたいこと」志向へと形を変えながら職業労働の領域へ広がっていく。
第二に、「自己を選択するという問題が前景化すると同時に、その選択の準拠点としての対人関係やコミュニケーションの重要性が急上昇していく。「コミュニケーション不全症候群」してのオタクから「非コミュ」としての「引きこもり」「ニート」、あるいは企業が求める資質としての「人間力」「コミュニケーション力」「コア・コンピタンス」まで」64 80年代の消費社会論からの自我論から、90年代のコミュニケーショ
ン論からの自我論への変化がみられる。
第三に、「対人関係への敏感さが上昇するにつれて、その都度選択的に構成される様々な自己の間の齟齬が徐々に大きくなっていく。一人の人間の中の多元性が次第に目につきやすくなっていく」65 例えば、「キャラ」という言葉は、「多元的自己の個々の部分的な人格を指し示すものと理解することができる」65
第四に、「関係によって規定される自己と自分の内側にあるはずの「かけがえのない」「個性」としての自己との間の矛盾が耐え難いものになってきたときにそれを緩和するためにいくつかの戦略が開発されることになるだろう。」65
 
これを手短にまとめると、次のようになるだろう。
・消費社会の中で、自分らしさは消費を通して構成されるものになる。
・自己は、学校教育や職場の中でコミュニケーションを通して構成されるものになる。
・ひとは、対人関係ごとに構成された「キャラ」ないし「分人」を生きることになる。