01 はじめに 構成主義と仏教 (20150531)
「自我」の理解は、「私とはどのようなものか」というような哲学的な問いや、「お昼に何を食べようか」「今日は何をしないといけなかったのだろうか」というような日常的な問いによって、構成されている。自我は、自我にかかわる問答において、問いの前提や問いの答えによって、構成されている。
このような自我の構成が、社会の中でどのように行われるのかを説明するのが、自我の社会構築主義になるだろう。しかし、その時の説明において、資本主義や共同体のような社会制度を前提するならば、それらもまた歴史的社会的に構成されたものなのだから、そもそもの説明の出発点をどこに求めることになるのだろうか。
その時の可能な答えの一つは、ルーマンのように社会はコミュニケーションから構成されていると考えることである。発声行為や身体行為にある意味を帰属され、それが他の行為の選択決定を促す、という仕方でコミュニケーションが成立し、その連鎖と集合が、社会や文化や人格を構成する。では発声行為や身体行為にある意味が帰属されるのは、どのようにしてなのだろうか。これは、言語起源論や哲学的意味論の課題であり、私にとってはメインの仕事になるが、ここでは扱えない。(これについては、とりあえず2014年度2学期の講義ノートhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kougiindex.htmを見ていただければ幸いです。)
このような自我や社会の理解は、西洋ではポストモダンの思想かもしれないが、東アジアでは仏教以来なじみのものである。そこで、まず仏教の自我論とその歴史を確認しよう。