論理学の語彙が保存拡大であるとして、その次に、ではペアノの自然数論の語彙やヒルベルトの幾何学の語彙が保存拡大か非保存拡大か、を検討したかったのですが、スッキリとした議論ができずに困っています。
そこで、それらを飛ばして、ここでは自然科学の語彙について考えたいと思います。
日常の言葉の殆どは、明示的定義や文脈的定義を与えることができないものでした。定義の困難さゆえに、ウィトゲンシュタインは、「家族的類似性」という特徴を上げていました。つまり、たとえば「家」を定義しようとしても、多様な家があって、そこに共通の性質を見つけることは難しく、つまり定義することが難しく、「家」と呼ばれているものの間に、家族的類似性のようなものがあるとして言えません。
これに対して、科学では語に明確な定義が与えられることが多いのではないでしょうか。科学でも明示的な定義が与えられない用語が多くあると思いますが、ある学術用語を導入するときには明確な定義を与えるはずだと思います。たとえば「covid19」には、RNAの塩基配列についての定義があるのではないでしょうか。ところで、このように明確な定義がある語については、その導入規則と除去規則を連続して適用した後の推論は、保存拡大になると思われます。
#明示的定義の導入は、保存拡大にみえる
「A=B」が「A」の定義であるとき、ここから簡単に次の導入規則と除去規則を作ることができる。
x=B┣x=A (Aの導入規則)
x=A┣x=B (Aの除去規則)
これを連続適用すると
x=B┣x=B
という推論を得る。これは同語反復であり、Aの導入規則と除去規則を使用しなくても成立する。つまり明示的定義ができる語を導入しても、それ以前の語や文の意味を変えることはない。
#複数の明示的定義の導入は、非保存拡大になる
ある語に明示的定義があっても、その語の導入が、保存拡大になるとはかぎらない。例えば、対象Gの定義がつぎのように二通りあるとしよう。
①Gx≡Fx∧Ex∧Hx
②Gx≡Ix∧Jx∧Kx
これから
Fx∧Ex∧Hx┣Gx (Gの導入規則)
Gx┣Ix (これは②からつくれるGの除去規則の一例であり、ほかにもありえます)
この二つから推移律によって、次が成り立つ。
Fx∧Ex∧Hx┣Ix
この推論は、明示的定義の①と②があったとしても、非保存拡大である。
このように明示的定義があるとしても、それが複数ある時には、その語彙は非保存拡大をもたらし、その他の語の意味に変化をもたらす。例えば、古い定義に加えて、新しい定義が行われるような場合もこのことがおこる。(同じことが、文脈的定義が複数ある時にも生じるが、ここではその説明を省略する。)
ブランダムが「温度」を例に挙げているのは、このようなことである。
「論理学の外部では、これ[非保存拡大]は悪いことではない。科学における概念的な進歩はしばしばそのような新しい内容を導入することにこそ存するのである。温度の概念は、適切な適用に関する何らかの基準ないし状況と、適用の何らかの帰結ともに導入された。温度を計測する新しい方法が導入され、温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用されるときには、温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化するのである。」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳p.97)
「温度」の概念は、「適切な適用に関する何らかの基準ないしは状況」(つまり「温度」の導入)と、「適用の何らかの帰結」(つまり「温度」の除去規則)ともに導入された。しかし、「温度を計測する新しい方法が導入され」(つまり「温度」の新しい導入規則が導入され)、「温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用される」(つまり「温度」の新しい除去規則が導入される)ときには、「温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化する」ということになる。
ブランダムがここで言いたいことは、科学において「温度」の概念が進歩し、複数の導入規則と除去規則が混在するとき時、「温度」の導入規則と除去規則は、保存拡大という性質を失うということだろう。
「温度」について複数の定義があるならば、人文社会学の概念、例えば「権利」についてはさらに複数の定義があるだろう。したがって、人文社会学の概念もまた非保存拡大である。