13 科学の語彙は非保存拡大か? (20200510)

 論理学の語彙が保存拡大であるとして、その次に、ではペアノの自然数論の語彙やヒルベルトの幾何学の語彙が保存拡大か非保存拡大か、を検討したかったのですが、スッキリとした議論ができずに困っています。

 そこで、それらを飛ばして、ここでは自然科学の語彙について考えたいと思います。

 日常の言葉の殆どは、明示的定義や文脈的定義を与えることができないものでした。定義の困難さゆえに、ウィトゲンシュタインは、「家族的類似性」という特徴を上げていました。つまり、たとえば「家」を定義しようとしても、多様な家があって、そこに共通の性質を見つけることは難しく、つまり定義することが難しく、「家」と呼ばれているものの間に、家族的類似性のようなものがあるとして言えません。

 これに対して、科学では語に明確な定義が与えられることが多いのではないでしょうか。科学でも明示的な定義が与えられない用語が多くあると思いますが、ある学術用語を導入するときには明確な定義を与えるはずだと思います。たとえば「covid19」には、RNAの塩基配列についての定義があるのではないでしょうか。ところで、このように明確な定義がある語については、その導入規則と除去規則を連続して適用した後の推論は、保存拡大になると思われます。

#明示的定義の導入は、保存拡大にみえる

「A=B」が「A」の定義であるとき、ここから簡単に次の導入規則と除去規則を作ることができる。  

   x=B┣x=A (Aの導入規則)

   x=A┣x=B (Aの除去規則)

これを連続適用すると

   x=B┣x=B

という推論を得る。これは同語反復であり、Aの導入規則と除去規則を使用しなくても成立する。つまり明示的定義ができる語を導入しても、それ以前の語や文の意味を変えることはない。

#複数の明示的定義の導入は、非保存拡大になる

ある語に明示的定義があっても、その語の導入が、保存拡大になるとはかぎらない。例えば、対象Gの定義がつぎのように二通りあるとしよう。

  ①Gx≡Fx∧Ex∧Hx

  ②Gx≡Ix∧Jx∧Kx

これから

  Fx∧Ex∧Hx┣Gx  (Gの導入規則)

  Gx┣Ix     (これは②からつくれるGの除去規則の一例であり、ほかにもありえます)

この二つから推移律によって、次が成り立つ。

  Fx∧Ex∧Hx┣Ix

この推論は、明示的定義の①と②があったとしても、非保存拡大である。

このように明示的定義があるとしても、それが複数ある時には、その語彙は非保存拡大をもたらし、その他の語の意味に変化をもたらす。例えば、古い定義に加えて、新しい定義が行われるような場合もこのことがおこる。(同じことが、文脈的定義が複数ある時にも生じるが、ここではその説明を省略する。)

ブランダムが「温度」を例に挙げているのは、このようなことである。

「論理学の外部では、これ[非保存拡大]は悪いことではない。科学における概念的な進歩はしばしばそのような新しい内容を導入することにこそ存するのである。温度の概念は、適切な適用に関する何らかの基準ないし状況と、適用の何らかの帰結ともに導入された。温度を計測する新しい方法が導入され、温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用されるときには、温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化するのである。」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳p.97)

「温度」の概念は、「適切な適用に関する何らかの基準ないしは状況」(つまり「温度」の導入)と、「適用の何らかの帰結」(つまり「温度」の除去規則)ともに導入された。しかし、「温度を計測する新しい方法が導入され」(つまり「温度」の新しい導入規則が導入され)、「温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用される」(つまり「温度」の新しい除去規則が導入される)ときには、「温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化する」ということになる。

ブランダムがここで言いたいことは、科学において「温度」の概念が進歩し、複数の導入規則と除去規則が混在するとき時、「温度」の導入規則と除去規則は、保存拡大という性質を失うということだろう。

「温度」について複数の定義があるならば、人文社会学の概念、例えば「権利」についてはさらに複数の定義があるだろう。したがって、人文社会学の概念もまた非保存拡大である。

12 日常語の非保存拡大について (20200509)

 (「温度」の例を説明すると予告しましたが、その前に説明しておきたいことを書かせてください。)

 侮蔑語「ボッシュ」によって非保存拡大が生じることを昨日説明しましたが、「ボッシュ」によるこの非保存拡大はどうして起こったのでしょうか。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである (「ボッシュ」の導入規則) 

   xはボッシュである┣xは冷酷である   (「ボッシュ」の除去規則)

これらに推移律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

しかし、これは「ドイツ人」や「冷酷」の従来の意味だけからは成立しません。つまり、非保存拡大が生じています。結論のこの推論において、これは推論ですから、「ドイツ人」と「冷酷」は、経験によって結合しているのではなく、意味によって結合していることになります。つまり、「ボッシュ」の使用法を認めることで、「ドイツ人」の意味は大きく変化し、「冷酷」の意味もまた少し変化していることになります。

 もしある語の使用を認めることによって、他の語の意味が変化するならば、その語の導入規則と除去規則は、保存拡大(conservative extension)(他の表現の意味を保存して、言語を拡張すること)ではなく、非保存拡大(non-conservative extension)であるといえます。

 このように<ある語の使用を認めることによって、他の語の意味もまた変化することになる>ということは、「意味の全体論」が主張していることでもあります。またこのことは、日常言語では、ありふれたことです。

 たとえば「べジマイト」という語の導入は、他の語句の意味を次のように変えます。「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」という文で「べジマイト」を説明する時、「野菜からつくられたベースト状のもののなかには、べジマイトがある」と言えることになります。ここで「べジマイトは、黒くて苦いペースト状のものである」ということも認めるならば、これと上の「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」から、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」が言えます。これは、「べジマイト」という語を導入する前には、言えなかったことです。つまり、「野菜からつくられたペースト状のもの」の意味が変化しているのです。「野菜」や「黒くて苦いもの」などの意味も変化しています。なぜなら、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」は、「べジマイト」の語の学習のあとでは、経験に基づいて成り立つことではなく、表現の意味に基づいて成り立つからです

 こうして論理的語彙は保存拡大であり、日常の言葉は非保存拡大であることが分かりますが、

その中間にある数学や幾何学や自然科学や社会科学の語彙については、どうでしょうか?

次回はこれを考察して、できれば「温度」の話にまでたどり着きたいとおもいます。

11 非保存拡大について (20200508)

保存拡大を持たない例として、ダメットが挙げているのは、侮蔑語「ボッシュ」である。「ボッシュ」というのは、ドイツ人に対する侮蔑語で、それを誰かに適用する条件(つまり「ボッシュ」の導入期測)は、その人がドイツ人であるということです。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである

その適用からの帰結すること(つまり「ボッシュ」の除去規則)は、

   xはボッシュである┣xは冷酷である

です。これらに推意律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

この推論は、「ボッシュ」を導入する前の語彙と推論規則からでは成立しません。つまり「ボッシュ」の導入規則と除去規則は「保存拡大」ではない、ということになります。

(Cf. Dummett, Frege Philosophy of Language, Harvard UP, p. 454) 

このような侮蔑語、差別語の場合には、典型的には、事実の記述が導入規則の前提になり、価値評価が除去規則の結論になります。これらは「非拡大保存」だといえるでしょう。

Brandomは、「ボッシュ」からの帰結である。「xはドイツ人である┣xは冷酷である」を認めませんが、それが「ボッシュ」が「非保存拡大」であるからではなく、単に推論として受け入れられないからであると言います(ダメットが、この点を、どう考えているのか分かりかねます)。

つまり、Brandomは、侮蔑語以外にも「非保存拡大」の語彙があり、「非保存拡大」であること自体は不都合ではないと考えています。

 では、そのほかの「非保存拡大」の語にはどのようなものがあるのでしょうか。ブランダムが挙げているのは、科学における「温度」の例です。それを次に見ましょう。

10 訂正:「調和」と「保存拡大」 (20200507)

前々回(8)での記述に誤りがあったので、訂正します。

そこでは、「もしある論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときの結果が、その論理的語彙を使用しないで推論できるものであるとすれば、その論理的語彙は、その他の語彙や文の意味を変更していないということである。」と述べ、「ヌエル・ベルナップは、このような導入規則と除去規則を「調和」していると呼んで、論理的な規則の設定の恣意性を制限しようとした。」

と述べました。その後N. Belnapの Tonk, Plonk, and Plink(Analysis 22 (1962): 130-134)読み直して、その論文に’harmony’(調和)が使用されていないことに気づきました。Belnapは、そのような論理的語彙の性質に「保存拡大」(conservative extension)という表現を当てていました。私はこれまで「調和」をベルナップが導入した用語だと思い込んで講義したことがあり、また論文にもそう書いたことがあるだろうとおもいます。ここで訂正し、お詫びいたします。Belnapの論文を読んでいたにもかかわらず、彼が「調和」と名付けたと勘違いしていた原因をこの数日調べていたのですが、おそらくDummettがLogical Basis of Metaphysics (Harvard UP, 1991, p. 246)で、Belnapが、論理法則への制約の一つは’harmony’であるとしていた、と書いていたことが、私の勘違いの原因になったのだと思います。このharmonyは、Belnapが考えていた「保存拡大」よりも少し広い概念です。Dummettは、「調和」と「保存拡大」の違いをよく分かっているのですが、その上で、その本のそこの文脈では、特に区別しなくてもよい、と考えたのだとおもいます。

前々回(8)と前回(9)に紹介した「調和」という語は、すべて「保存拡大」の間違いです。

意味は変化しません。つまり、ある語彙の導入規則と除去規則を設定して、導入規則でその語彙をしようし、次の除去規則でその語彙を除去するとき、その結果生じる推論が、その語彙やそれらの規則を使用する以前の語彙と推論規則で導出できるものであるとき、その語彙の導入規則と導出規則は、「保存的」である、あるいは「保存拡大」である、とBelnapは考えています。

 ダメットは、Frege Philosophy of Language (Harvard UP, 2nd ed.1981, p. 396)で「調和」をつぎのように説明しています。言語の意味は使用であるが、どんな使用方法でも良いのではない。文の使用には2つの側面がある。一つは、文の発話が適切なものになる条件であり、もう一つは発話の帰結である。この二つが「調和」することが、使用方法の条件となると、ダメットは言います。言い換えると、ある語彙を使った文の上流推論を行うことと、下流推論をおこなうこと、という二側面があり、今仮に問題の文をpとし、その上流推論をr┣p(前提が複数の文からなるとしても、それを連言で結合して一つの文にすることができる)とし、下流推論をp┣sとするとき、この二つの推論からr┣sが成立する。このrとsが「調和」することが、言語の正しい使用方法であるための条件であるというのです。rとsが調和するとは、もっとも緩い意味では、rとsが矛盾しないことでしょう。これは、文の使用の整合性が求めることです。しかし、それ以上のこともいえるかもしれません。この調和の「一般的特徴づけ」を語ることは困難である、とダメットは言う。ただし、(論理学のような)単純なケースでは、ベルナップのいう「保存拡大」だと言える(cf. Ibid. p. 397)、と考えています。

 ダメットは、言語使用のための条件を「調和」と呼んでおり、単純なケースでは、その「調和」は「保存拡大」として規定できるが、複雑な場合には一般的な仕方で条件を述べることが困難だと考えています。つまり複雑な場合には、保存拡大という条件を充たさなくてもよいが、しかし「調和」は満たさなければならない、と。

 では、ここで元の道筋にもどって、「保存拡大」でない語の場合を考えてみましょう。例えば、「リンゴ」という語の使用は、非保存拡大でしょうか?「忖度」はどうでしょうか?

09 疑問表現もまた、文の意味を変えない。(20200502)

 疑問表現の意味もまた、その導入規則と除去規則で明示化できるだろう。疑問文には、決定疑問(yes-no疑問)と補足疑問(wh疑問)があるが、決定疑問は特有の構文を持つが、特有の語彙をもたない。そこでまず、補足疑問から考察しよう。

 補足疑問は疑問詞(「どれ」「なに」「だれ」「いつ」「どこ」「どんな」「どのように」など)をもつ。「だれ」は「どの人」、「いつ」は「どの時刻」、「どこ」は「どの場所」、「どんな色」は、「‥の色はなに(どれ)」に、「どのように」は、「どんな仕方」に、さらに「…の仕方はなに(どれ)」などに、書き換えることができる。(「なぜ」以外の)すべての問いは、おそらく「どれ」の問いないし「何」の問いに書き換えられるだろう(「なぜ」の問いの説明は、最後に注とした)。「どれ」と「なに」の導入規則と除去規則は次のようなものである。

「どれ」と「なに」の導入規則

   「aがFです」┣ 「どれがFですか?」

   「aはFです」┣「aはなにですか?」と除去規則

「どれ」と「なに」の除去規則(タイプ1)

   「どれがFですか?」┣ 「あるものがFです」

   「aは何ですか?」┣「aはある集合に属する」(あるいは「aはある性質を持つ」)

疑問詞を除去するもっともありふれた方法は、補足疑問に答えることである。それは次のようになる。(結論は、補足疑問の答えであり、Γと⊿は、その答えを導出するのに必要な平叙文の前提の列である。)

   「どれがFですか?」、Γ┣「aがFです」  

   「aはなにですか?」、⊿┣「aはFです」   

「どれ」の導入規則と除去規則(タイプ1)を連続して適用すると

   「aがFです」┣「あるものがFです」

「どれ」の導入規則と除去規則(タイプ2)を連続して適用すると次の推論が成立する。

   「aがFです」┣「aがFです」

「なに」の導入規則と除去規則(タイプ1)を連続して適用すると

   [aはFです」┣「aはある集合に属する」(あるいは「aはある性質を持つ」)

「なに」の導入規則と除去規則(タイプ2)を連続して適用すると

   「aはFです」┣「aはFです」となる。

これらの導入規則と除去規則を連続適用してできる推論は、これらの疑問表現を使用しないでも可能である。ゆえに、これらの規則は「調和」をもつ。

 したがって、補足疑問の問答は、語や文の意味を変化させない。また補足疑問を用いた問答層推論は、語や文の意味を変化させない。したがって、補足疑問の問答やそれを含む問答推論によって、語や文の意味を明示化できる。問答推論的意味論は、発話の意味を次のように説明することになる。

 決定疑問文による問答が、表現の意味を換えないことは自明だとしてもよいだろう。

<発話の意味を理解するとは、それの正しい上流問答推論と正しくないそれ、正しい下流問答推論と正しくないそれを、判別する能力をもつことである>

次は、このような「調和」という性質を持たない語彙について考えよう。

注、<「なぜ」の問いは、出来事の原因を問う「なぜ」、行為の理由を問う「なぜ」、主張の根拠を問う「なぜ」に分けることができ、それぞれを「原因は何か」「理由な何か」「根拠は何か」と言い換えることができる。>以前、拙論 「三つの「なぜ」の根は一つか」(『メタフュシカ』35号別冊、2004年12月 S.59-68)でこのように論じた。現在も、「なぜ」の問いをこの3種類に分けることができると考えている。ただし、例えば出来事の原因をとう「なぜ」の問いを、「原因は何か」の問いは、全く同じではないと考えるようになった。「…の原因は何か」の答えは「…の原因は、xである」という形式をとるだろう。これに対して、「…は何故か」という問いは、「…」という出来事の説明を求めており、その答えは一つの命題になるのではなく、推論になる。たとえば「p」が出来事の記述であるとき、「なぜpか」という問いは、出来事pの説明を求めており、その答えは、「rであり、sである、ゆえにpである」という推論の形式をとることになる。この推論は、pがなぜ成立したのかを説明している。理由を問う「なぜ」、根拠を問う「なぜ」の場合も、これと同じで、答えは推論になる。「なぜ」の問いは、答えが一つの命題ではなく、推論になる点で、補足疑問とは異質である。

01 「どうやって問いを立てたらよいのか?」(20200501)

 【このカテゴリーは、前に「身辺雑記」というカテゴリー(書庫)であったもののタイトルを換えて、カテゴリーリストの先頭に移したものです。

ここでは日々徒然なるままに考えたことを書き記したいとおもいます。徒然なる哲学日記のようなものです。「日日是問問)」(日々問いを問う)にしようかとも思いましたが、わかりにくいのでこのタイトルにしました。日々の哲学的断想を書き記します。】

 問いは答えの半製品であり、答えよりも問いがより重要であるということを、以前から主張してきました。最近ときどき、問題設定の重要性が語られるようになってきました。そのときによく語られることは「では、どうやって問いを立てたらよいのでしょうか?」という問いです。

 これにどう答えるかは、各人それぞれの目的に依存します。お金を儲けるため、成績を上げるため、より有意義な人生を送るため、世界をよりよく認識するため、などの目的によって、答えは異なってくるでしょう。ただし、どのような目的をもっていても、いつも役に立つ助言の一つは、「より深くより広い問いを立ててください」ということです。(ところで、私は哲学を「より深くより広く問うこと」と定義することを提案しています。したがってこの助言は「哲学してください」と言い換えることができます。)

 より深い問い、より広い問いに対する答えが見つからないとしても、それの答えを見つけようとするなかで、当初の曖昧な目的のためのより適切な問題設定が可能になるだろうと思います。そして、しっかりした問題設定のためには、こうしたことを考える時間が必要であり、気持ちの余裕が必要だろうと思います。