19 四肢構造と二重問答関係(2) (20200622)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

認識の四肢構造は次のようなものであった。

<能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

対象の側にも主体の側にも、「として」構造という二肢構造がある。これが四肢構造である。対象がどのようなものとして現れるかは、主体がどのようなものとして対象を見るかに依存している。前回の例で言うと、<人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する>となる。

#対象の「として」構造と問答

対象の二肢構造(「として」構造)は、<認識が問いに対する答えとして成立する>ということによるのではないだろうか。たとえば「AはBである」という認識の場合、それは次の問いの答えとして成立する。

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

この答えは、「AをBとして」とらえている。上の例では、認識の主体は、次の問答を行っている。

  Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問い、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と答える。

#主体の「として」構造と問答

では、主体の「として」構造は、認識における問答とどう関係しているのだろうか。

認識が成立する時、主体が次の問答を行っているとすると、

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

Q1を問う者が、A1を答える者として、認識しているのだろうか。上の例でいうと、<Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問う人(能知的誰某)が、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と医者(能識的或者)として答える>のだろうか。つまり、能知的誰某と能識的或者の二肢に、問うことと答えることを割り振ることができるのだろうか。

 それとも、この割り振りは間違っており、問うことも、答えることも、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>がおこなうのだろうか。「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」という問いよりもさらに、専門的な問い、たとえば「レントゲン写真の肺の左下のこの小さなうっすらと灰色になった部分は何か?」というような専門家でなれば設定できないような問いを考えるならば、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>が問うのだという方がよいかもしれない。この場合には、二肢構造を持つ主体が、問いを設定し、それに答えることになる。

 この二つの解釈の内、どちらが正しいのだろうか?

廣松は、四肢の関係について次のように述べている。

「われわれは、能知的主体が、[…] 現相的所与の帰属者たるかぎりで「能知的誰某」と呼び、能知的主体が […] 意味的所識の帰属者たる限りで「能識的或者」と呼ぶことにしたいのである」148

つまり、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関していると考えている。四肢の関係をこのように理解する限り、廣松ならば、二つの解釈のうちの、前者が正しいというだろうと考える

次に、廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい。