[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
廣松の言う認識の四肢構造は、
<能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>
であるが、これを簡略化すると次のようになる。
<ある主体が或者として、ある所与を或物として、認知する>
この四肢構造論は、私には、非常に啓発的であるように見えるが、しかし、この四肢構造論をさらに展開したり応用したりするような研究は現れていないように思われる。そこで、「二重問答関係」を用いて、四肢構造論を発展させたいというのが、私の意図である。
しかし、前回とりかかった「四肢構造論」と「二重問答関係」の結合はうまくゆかなった。
前回最後に、「廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい」と述べたが、それを考察しても、「四肢構造論」と「二重問答関係」の結びつけはうまくゆきそうにないので、以下では、仕切り直して、前回部分を丸ごとやり直すことにする。
#二重問答関係の例1
犬小屋を作ろう思って、ホームセンターの木材売り場に行き、「どの板がよいだろうか?」と問い、ある木の板をみて「この木はなにだろう?」と問い、「これは杉の板だ」と答える。
「これは杉の板である」から、「杉の板は丈夫ではないが、加工しやすい。犬小屋の板はそれほど丈夫なものである必要はない。この杉の板は安い。この杉の板がよいだろう」と答える。
Q2「どの板がよいだろうか?」→Q1「この木は何だろう?」→A1「これは杉の板だ」→A2「この板がよいだろう」
このような二重問答関係があるとしよう。ここでは、次のことが成立している。
・犬小屋を作ろうとするものとしてQ2を問う。
・Q2に答えようとするものとしてQ1を問う。
・Q1を問う者として、A1を答える
・Q2を問う者として、A2を答える。
・この例でわかるように、問うのは、より上位の目的のためである。「その目的の実現を実現するにはどうすればよいのか?」という実践的な上位の問いをとくために、問いを立てるという関係にある。
・この例でわかるように、答えるのは、問う者として、であると言えそうだ。他者から問われたときには、問う者と答える者が同一でないが、そのときでも、答える者は、問われたものとして答えるのである。答えるのは、問う者として(あるいは問われたものとして)答えるのである。
以上を四肢構造に即して表現すると次のようになる。
<Q1を問う者は、より上位の問いQ2を問う者として、Q1を問う>
<ひとは、Q2を問う者として、Q1を問う>
<ひとは、Q1を問う者として、A1を答える>
#二重問答関係の例2
Q2「この人は健康だろうか?」という問いに答えるために、「Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」を問い、A1「それは、肺がんの画像(意味的所識)である」と答える。
この答えから、Q2の答えA2「この人はガンに侵されている」を得る。
<ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>
<ひとはQ1を問う者として、答えA1を得る>
<ひとはQ2を問う者として、答えA2を得る>。
廣松のいう認識の四肢構造は、次であった。
<能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>
この四肢構造で、上記の問答関係を表現すると、例えば次のようになる。
<人は、Q1を問う者として、答えA1を得る>
対象の側である答えA1は、二肢構造になっていないが、しかし答えの命題は、問いにおいて既に与えられている部分と、答えの中で新しく提供される焦点部分に分かれており、その焦点構造を<として>構造として解釈できる。それは次のようになるだろう。
<レントゲンの白い部分は、[ガンの画像]Fである>
<<ガンの画像>としてのレントゲンの白い部分>
上記の例のなか、<ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>については、対象の側の二肢構造を、
<(空白)>としてのレントゲンの白い部分>
のように解釈できるだろう。
廣松は、認識の四肢構造を、知覚を念頭に分析しているので、対象が二肢構造(<として>構造)をもつことになる。これは、知覚のゲシュタルト構造(地図構造)とうまく一致する。しかし、認識を「私はpを知っている」などの命題的態度として捉えると、「知識についての問答関係論」(これについては、いずれ説明します)には都合がよいのだが、四肢構造論を当てはめることに無理があるのかもしれない。
次に行為の四肢構造を考察しよう。