13 「外的世界」への懐疑 (20200815)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』の第2章において、「外的世界」「他人の心」「過去の実在」に共通して適用できる懐疑論の論法を提示している。例えば、「外的世界」に対する懐疑を次のように説明する。

<①「ここに椅子がある」という主張を疑うためには、まずこの主張の根拠として、②「私は椅子を見ている(感じている)」を想定する。次に②が①の根拠として不十分であることを示すために、懐疑論的仮説③「私は悪霊によって欺かれている」を想定する。②と③は両立可能である。しかしもし③が正しければ、①は誤りである。ゆえに、②は、①の根拠としては不十分である。したがって、①「ここに椅子がある」という主張は疑わしい。>

 山田氏はこれを次のように整理している。

(1)外的世界に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「ここに椅子がある」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「私は椅子を見ている(感じている)」

→②’再記述された証明項

  「私は椅子の視覚印象(感覚)をもっている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「私は悪霊によって欺かれている」(外的世界の対象は存在していない)

 (⟷③’〈日常的前提〉「外的世界の対象が存在する」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

ここで重要なのは、主張①とその根拠②と懐疑的仮説③の関係である。①と③は両立不可能であるが、②と③は両立可能である。それゆえに、もし③が正しければ、②は①を証明する十分な根拠とはならない。

この論法を「他人の心」と「過去の実在」に適用したものを次に引用しておこう。

(2)他人の心に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「彼は痛みを持っている」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「彼は痛みの振る舞いをしている」

→②’再記述された証明項

  「彼は顔の筋肉をゆがめて、お腹をおさえている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「彼は自動機械である」(彼は心をもっていない)

(⟷③’〈日常的前提〉「彼は心をもっている」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

(3)過去の実在に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「日露戦争は100年前におこった」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「日露戦争について書かれた100年前の文書が残っている」

→②′再記述された証明項

   「100年前の日付(「一九〇四年」という文字)のついた文書に日露戦争についての記述がある」

③〈懐疑論的仮説〉

   「地球は5分前に創られた」

(⟷③′〈日常的前提〉「地球は私が生まれる遥か以前から存在していた」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③′である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

この懐疑の論法は、哲学的な懐疑に限らず、日常の疑いにも使えるものである。それを次に確認しよう。