23 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(3)(20210109)

[カテゴリー:日々是哲学]

 「クワインは「認識論の自然化」で何をしようとしたのか?」と問う時、その答えはどうなるのでしょうか。クワインはつぎのように述べていました。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

「翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

以上からすると、認識論が心理学の一章として行おうとすることは「観察と科学の結びつきを理解する」と言うことですが、しかしそれは「顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成」ではないということ、それは、科学的言明を観察用語と論理学数学の用語で説明するのではない、ということでしょう。

 カルナップが考えている「弱い合理的再構成」はそのようなものであり、それは「合理的意味論的再構成」だと言えるでしょう。これに対して、心理学は意味論ではありません。つまり心理学は、科学的言明の意味を説明するのではなく、科学的言明の成立という心的現象を因果的に説明しようとすることになるでしょう。つまり心理学としての認識論は、科学的言明の「因果的再構成」を目指すと言えそうです。

 ところで、自然化された認識論が、科学的言明の「因果的再構成」を目指すのだとするとき、ここに循環の怖れはないのだろうか、と心配になります。クワインもここに「相互包摂」(「自然科学のうちへの認識論の包摂であり、認識論への自然科学の包摂である」(第36段落))が生じると述べていますが、心配ないといいます。

「科学を感覚与件から演繹する夢を棄てた今ではその心配はまったくない。われわれは科学を世界における制度ないしは過程として理解したいのであるが、この理解が、その対象である科学以上のものであると主張するつもりはない。」(第37段落)

私たちは、これだけではまだ納得できないでしょう。この循環の問題は、現代のプラグマティストであるプライスの言う「位置づけ問題」と関係しているように思います。この問題については、機会を改めて論じることにしたいとおもいます(多くのカテゴリーが書きかけになっているので)。

(位置づけ問題に興味のある方は、ブランダム著『プラグマティズムはどこから来てどこへ行くのか』(加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、下巻、勁草書房)特に第7章、をご覧ください。)