22 アフォーダンスの選択(抽出)  (20210101)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(明けましておめでとうございます。今年も、問答の考察に取組んでゆきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。)

 レヴィンやコフカは、事物の価値や効用は、直接に知覚されると考えていたが、しかしそれらが物理的な実在性を持つのではなく、「現象的な「場」において、事物と自我との間に何らかの力が働くためであると考えていた。つまり、要求や動機が働いていると考えていた。(参照、エドワード・リーチ、レベッカ・ジョーンズ編『直接知覚論の根拠』境淳史、河野哲也訳、勁草書房、350f)

 しかし、ギブソンはそれら事物の価値や効用は、直接に知覚されるだけでなく、客観的に実在すると考えていた。つまり、「事物のアフォーダンスは、観察者の要求の変化に関わりなく、変化しないと考えられている。例えば、ある物質がある動物にとって食べられるか否かは、その動物が、空腹か否かとは無関係である。ある動物がある面の上を歩けるという事実は、(どの動物の移動能力やその動物の行為システムと関連してはいるが、)実際にその動物がその上を歩くか否かに関わりなく存在する。」(前掲訳、350)。

 このことは「負のアフォーダンス」にも成り立つ。「対象・場所・動物が観察者を傷つける力、すなわち、それらの負のアフォーダンス《negative affordance》も、観察者がそれらを恐れるか否か、嫌悪するかいないか、回避するか否かと言ったこととは無関係である。」(前掲訳、350)

 問題は、アフォーダンスが一つの事物について無数にあるということである。なぜそれが問題になるかというと、アフォーダンスは無数にあるが、そこにいる動物に知覚されるアフォーダンスはそれらの一つにすぎない(場合によっては複数のアフォーダンスが同時に知覚されるかもしれないが、全てのアフォーダンスが知覚されるのではない)ということである。そうすると、そこでのアフォーダンスの知覚(選択、抽出)はどのように行われるのか、を説明する必要が生じる。

 これを説明するのは、一つには、動物の環境の中での位置、動物の内的要因、などであろう。これらによって、知覚されるアフォーダンスは限定されるだろう。ギブソンは「要求は、アフォーダンスの知覚を制御し(選択的注意)、行動を開始させる」(前掲訳、350)と述べているが、この「要求」は、動物の内的要因の一種であろう。

 ギブソンは、ゲシュタルト心理学が、心理と物理の二元論(前掲書、349)を前提していることを批判するのだが、アフォーダンスの中のどれを知覚するのか(選択するのか、抽出するのか)ということを説明しようとすると、動物の内的要因を考慮する必要が生じ、探索行動を考慮する必要が生じるだろう。そうすると、アフォーダンスの知覚の説明は、ゲシュタルトの知覚の説明とあまり違わないものになるのではないだろうか。

 ゲシュタルトの知覚も、アフォーダンスの知覚も、動物の探索行動によって規定されている、と言えそうである。しかし、今の私にはこれ以上の解明ができないので、一旦動物の探索行動の考察を中断し、人間の問いに考察に向かいたい。

 (ただし、次にこの問題に戻ってくるときのために、もう一つの難題をここに書き留めておきたい。それは次のようなことである。無脊椎動物が、方向性を持つ刺激に対して走性反応をするとき、その行動の全体は、動物が探索しているように見える(たとえば、餌を探索しているようにみえる)ものであっても、その行動は遺伝的に決定した行動であって、その動物が個体として探索しているということは、そう見えるというだけの<見かけ上の探索>である。このとき、走性を引き起こする「方向性を持った刺激」はゲシュタルト構造を持つ知覚だと言えるだろう。そして、対象がどのようなゲシュタルトで知覚されるかは、動物がどのような探索行動をしているかによって規定されている、と想定してきた。しかし、探索が<見かけ上の探索>ならば、ゲシュタルトの方も観察者にそう見えるだけの<見かけ上のゲシュタルト>であることになりそうである。しかし、もしそうだとすると、観察者からみての<見かけ上のゲシュタルト>をもつ刺激に、動物が走性反応をするということになってしまう。これをどう説明したらよいのだろうか? もし知覚と探索(問い)行動の対応関係を主張しようとするならば、この問題に答える必要がのこる。)

 次回からは、人間の問いの起源に取り組みたいと思います。