[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
デイヴィドソンは、これらの3つの問題(デイヴィドソンは、記憶についても同様の問題を述べていますが、これは知覚の問題と同型なので、ここでは知覚と記憶を一つ問題と考えます)を説明した後に次のよう言います。
知覚と行為と推論についてのこれらの問題の同型性が明確になるように、表現しなおしたいとおもいます。デイヴィドソンは、これら3つの各々について、それぞれ2つの問題を指摘していました。最初の問題は次のような問題です。
・事実が知覚の原因となって、知覚が生じていること(原因と結果の関係)
・意図が行為の原因(理由)となって、行為が行われていること(理由と行為の関係)
・推論規則が原因(根拠)となって、他の前提から結論が導出されていること(根拠と結論の関係)
そして、これらの問題が解決されてもまだ不十分であり、次の問題が解決されなければならないといわれます。
・事実が知覚の原因となっているだけでなく、それが知覚の十分な条件になっていること
・意図が行為の原因(理由)となっているだけでなく、それが行為の十分な条件になっていること
・推論規則が推論の原因(根拠)となっているだけでなく、それが推論の十分条件になっていること
私は、これらの最初の問題を次のような問答関係に注目することで解決しようとしました。
「なぜ、その知覚が生じるのか」「なぜなら、あの事実が原因となってその知覚が生じるから。
「なぜ、その行為を行うのか」「なぜなら、あの意図が理由となって、その行為を行うから」
「なぜ、その主張を行うのか」「なぜなら、あの推論規則が根拠となって、その結論を主張するから。」
次に第二の問題をつぎのような問答関係に注目することで解決しようとしました。
「あの事実は、その知覚が生じるための十分な原因になっていますか?」
「あの意図は、その行為が生じるための、十分な理由になっていますか?」
「あの推論規則は、その結論が生じるための十分な根拠になっていますか?」
このとき、原因や理由や根拠が十分なものであるための条件を一般的な仕方で明示することはできないと、デイヴィドソンはいいます。私もその通りだと思います。しかし、時々の文脈の中では、私たちは、何が十分であるかについての暗黙的な想定をしていると思います。
このブログでの45回からこの回(51回)まで、知覚と行為と推論を正当化する難しさについてのドナルド・デイヴィドソンによる指摘を検討し、問答関係に注目することによってその困難を克服することを提案してきました。
ちなみに、これらの問題の根っこについて、デイヴィドソンは次のように説明しています。
「これらの難問はすべて、思考の因果関係に関わっている。行為の原因としての思考に、知覚の結果としての思考に、そして、他の思考の原因としての思考に関わっている。それらの関係があまりにも多くの難問をはらむという事実は、因果の概念と思考の概念との間に何らかの種類の不和があることを示唆している。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、465)
私の理解は、これとは少し異なります。この分析は、知覚と行為の説明についてはあてはまります。なぜなら、知覚と行為の説明では、心的要素と物的要素の間の因果関係が関わるからです。しかし、推論の説明の困難は、前提と結論の関係の説明の困難であって、これには因果関係は関係しません。
たしかに、因果の概念と思考の概念との間には不和があるとおもいますが、それについては、別の機会に考えたいと思います。