[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]
(一か月ぶりに戻ってきました。少し前のupを読み直していたら、第49回のベイズの定理の証明に間違いが見つかりましたので、それを訂正しました。基本的な間違いですみません。正直なところ、ベイズ推論についてはにわか勉強で、十分に使いこなせるほどわかっていません。それでも取り上げるのは、ベイズ推論は人間や動物の脳の機能の説明や人工知能の作成にとって重要であり、それゆえにまた、それが問答推論として成立することを確認することが重要だと思うからです。)
この一か月フィヒテについて考えていたのですが、フィヒテの超越論的観念論と近年の神経科学の理論との親近性を感じました。日本フィヒテ協会のシンポジウムの発表原稿の最後に次のように書きました。
「神経科学における知覚や行為の説明理論として登場したカール・フリストンの「能動的推論」やヤコブ・ホーヴィの「予測誤差最小化メカニズム」やアニル・セスの議論は、フィヒテによる、物や自我や時間についての超越論的な反実在論的な議論や、自由についてのデフレ的理解と親和性があるように見えます。例えばアニル・セスは、「私たち一人一人にとって、意識的な経験がそこにあるすべてなのだ。意識がなければ、世界も、自己も、内面も、外面もない」(参考文献6,p. 9)と主張していますが、これはフィヒテの超越論的観念論を想起させます。もちろ彼らは神経システムを自然科学で説明します。しかし心を推論によって構成された予測モデルとして捉えるので、心の説明としては構成主義的ないし反実在論的な説明になります。フィヒテが「知識学」で苦心した試み、「事行」から出発して認識や行為を説明する試みが、現代の神経科学の試みに貢献できるかどうかは未知数ですが、親和的であることは確かです。(注8)
注8 彼らによれば、心は、外界からの感覚刺激から世界の表象を作るのではなく、まず世界についてのモデルを作り、そのモデルから感覚刺激を予測し、その予測を実際の感覚刺激と比較して、誤差があれば、モデルを修正するということを繰り返します。彼らは、知覚を推論として捉える心理学者ヘムホルツの影響を受けており、ヘルムホルツはカント認識論の影響を受けていると言われているので、彼らの主張が超越論的観念論と親和的であることは偶然ではありません。彼らは、知覚や行為をベイズ推論によって構築された予測モデルとして説明することを超えて、自我や自由意志などもベイズ推論によって構成される予測モデルである見なす取り組みを始めています。」
(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR47%2020221120%20Spinoza%20and%20Fichte.pdf)
私たちが外界について知ることは、すべて脳内で予測モデルとして作られ、それが感覚刺激によるチェックと修正を繰り返して成立している、と想定できます。すると、外界は、脳が構成したものです。脳が構成したものだけが私にとって存在するのです。私もまた脳が構成したものです。
(さらに言えば、神経科学が説明している脳もまた、脳が構成したものです。そうするとどうなるのかは、別途(おそらく科学哲学の問題として)考えることにします。)この考えは、「自我が自己の中に定立するもの以外には何ものも自我に所属しない」(『知識学の特性要綱』(『フィヒテ全集』第4巻360)と似ています。
(次回からは、ベイズ定理と問答の考察に戻ります。)