05 自由に意志していると思っていること(20221111)

[カテゴリー:自由意志と問答]

<「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであるならば、意志することと決定論をともに真と見なすことは、は両立しない>という主張に対して、スピノザならば、次のように答えるでしょう。

<「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであると思われるとしても、それは何かを意志し、かつ「何かを意志している」と考えているときに、自由に意志しているのではなく、「自由に意志している」と考えている、ということに過ぎない。>

例えば、食堂でうどんを食べるかそばを食べるかを考えて、うどんを選択したとき、そばを選択することもできたという意識がともなうが、選択できたと思っているだけであり、本当は未知の原因によってうどんを選択することが決まっていたということはありうるかもしれません。行為や意志作用に、つねに他行為可能性の幻想が伴うようになっているのかもしれません。

たしかに、一人で何かを意志したり行為したりするときに伴う他行為可能性の意識は、幻想である可能性を排除できません。では二人の時はどうでしょうか。

例えば、私が友人に電話して、明日の正午にどこかで会おうと誘い、友人もそれに同意し、学生食堂で会おうという友人の提案に同意して、あす正午に学生食堂であることを約束したとしましょう。私が、明日の午後に会うことを提案したとき、私は他の日時を提案することも可能であったと考えていますが、それが幻想である可能性はあります。その提案に友人が同意したとき、友人は、同意しないこともできたという他行為可能性の意識を持つでしょうが、その他行為可能性もまた幻想である可能性があります。ここで、私は、<私が友人と明日正午に学生食堂であうことを約束するとき、この約束は、別の内容になっていた可能性もある>と考えていますが、それもまた幻想である可能性があるのでしょうか。その場合、私の提案も友人の同意も最終的に成立した約束も、決定していたということになりそうです。

(ちなみに、仮に自由が幻想だとするとき、自然主義的な描像のなかで、なぜ自由意志という幻想が必要なのか、を説明する必要あります。また、人は自由に意志していると思っているだけだ、というスピノザの主張を、真であると証明するには、実際に自由な意志決定であると思われているものについての因果的な説明を、実際に示す必要があります。それができない限りは、可能性の提示にとどまります。しかし他方、自由意志の存在証明に関しては、そのために何を示したらよいのすら、よくわかりません。それを考えたいと思います。)

ところで、<自由に意志しているのか、それとも自由に意志していると思っているだけなのか>という問題は、以下のように、言語の規則遵守の問題と似ています。

#自由意志の問題は、言語の規則遵守問題と似ている。

私が言語を話すとき、私は言語規則に従っていると信じていますが、言語規則に従っていると信じているだけで本当はそうではないかもしれません。

一人では、

<言語の規則に従うこと>

<言語の規則に従っていると信じていること>

この二つを区別できません。少なくとも二人の人が必要です。もし二人いれば、一人の人が、言語の規則に従っていると信じているときに、他の人が、言語の規則に従っていないと指摘できる可能性があるからです。

 しかし、二人いれば確実に判定できる問いことでもないし、三人いれば確実に判定できるといことでもありません。とりあえずは、社会的なサンクションが必要であるという曖昧な言い方しかできません。

これと同様に、一人では、自由な意志決定を行うことはできません。なぜなら、自由な意志定が成立しているかどうかは、一人では判定できないからです。なぜなら、一人では、

  自由な意志決定ができていること

  自由な意志決定ができていると信じていること

このふたつの区別ができないからです。もし二人いれば、一人の人が、自由な意志決定ができていると信じているときに、他の人が、自由な意志決定ができていないと指摘できる可能性があるからです。

 自由意志についても、二人いれば確実に判定できるということでもないし、三人いれば確実に判定できるということでもありません。とりあえずは、社会的なサンクションが必要であるという曖昧な言い方しかできません。

以上から次のように言えるでしょう。

・<何かを話すことは、何かを言語の規則に従って話すことです>。そして、<言語の規則に従う>ということは、話すことが持ったり持たなかったりする性質ではありません。

・<何かを意志決定することは、何かを自由に意志決定することです>。そして、<自由に>ということは、意志決定することが持っていたり持っていなかったりする性質ではありません。

このように、自由意志の問題は、言語の規則遵守の問題と似ています。ところで、言語の規則遵守の問題は、最終的には社会的サンクション(言語共同体の同意)の問題になるように思われるのですが、では、自由意志の問題も、社会的サンクションの問題になるのでしょうか。それを次に考えたいと思います。