04 スピノザの「意志」とは何か (20221104)

[カテゴリー:自由意志と問答]

前回述べたように、私の理解では、「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであるので、意志することと決定論をともに真と見なすことは、両立しないと思われるのですが、スピノザの「意志」の理解は、これとは異なるようです。そこで(意志することと決定論の関係をさらに考えるまえに)、スピノザが、意志をどのようにとらえているのかを確認しておきたいと思います。

スピノザによれば、すべての個物は物体も身体も精神も自己の有に固執しようとする「努力」(conatus)を持っており、彼はこの「努力」を個物の「現実的本質」として捉えています。

「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、そのものの現実的本質に他ならない。」(第3部定理7、強調は入江)

彼は、この「努力」の二つの在り方として、意志と衝動を区別します。

「この努力が精神だけに関係するときには意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係するときには、衝動とよばれる。」(第3部定理I9備考)

この説明は、わかりにくいのですが、とりあえず次のように理解しようと思います。

物体であれ、身体であれ、精神であれ、おのおのの物が、自己の有に固執する努力を持つのですが、精神が持つ努力は思惟であり、身体が持つ努力は物質的なものであり、両者は常に一致するとしても、別のものです。したがって、精神に関係する努力は、身体には関係しえません。また身体に関係する努力は、精神に関係しえません。したがって、「同時に精神と身体とに関係する」努力というものはあり得ません。一つの可能な読み方としては、同一人物の身体に関係する努力と精神に関係する努力は、観念とその対象が一致するのと同じように一致するので、そのようにして<二つの努力が一致したもの>として理解することです。

二つの努力が一致したこの努力を、スピノザは「衝動」と呼びますが、さらにこの衝動が意識されたものを「欲望」と呼びます。

「衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りに於いてもっぱら人間ついて言われるというだけのことである。このゆえに、欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。」(第3部定理I9備考)

欲望は、三つの根本感情(欲望、喜び、悲しみ)(第3部定理59備考)の一つですから、観念の一種であり精神に属します。 欲望は、衝動が意識されたのでした。そして衝動とは、私の理解では、精神における努力と身体における努力が致している場合の努力でした。したがって、欲望とは、おそらく<精神における努力の意識と、身体における努力の意識と、それら二つの努力の一致の意識からなるもの>なのでしょう。

意志は、このような欲望とは異なり、<精神だけに関係する努力>でした。ところで、身体に関係する努力が、「自己の有に固執する」ということは、自己保存しようとすることとして理解できますが、精神に関係する努力が、「自己の有に固執する」とはどういうことでしょうか。これに答えるには、意志と欲望を区別した次の文が役立ちそうです。

「ここで注意せねばならぬのは、私が意志を欲望とは解せずに、肯定し・否定する能力と解することである。つまり私は意志を、真なるものを肯定し、偽なるものを否定する精神の能力と解し、精神をして事物を追求あるいは忌避させる欲望とは解しないのである。」(第2部定理48備考)。

意志とは、<真なる観念を肯定し、偽なる観念を否定する精神の能力>だといわれています。

例えば、おそらく「このリンゴは食べごろだ」という命題を真として肯定することが意志なのでしょう。しかしこれだけでは、リンゴを食べるという行為は始まりません。この意志が行為に向かうためには、欲望が働く必要がありそうです。

 もしスピノザの「意志」がこのようなものだとすると、「…を意志する」は「…を自由に意志する」とは言えないかもしれません。これについて次に考えようと思います。(話がややこしくてすみません。もっとシンプルに語りたいのですが、スピノザについて素人なので、シンプルに語ることができません。)